私は世界の破壊者となった 原子爆弾の開発と投下

 林トモアキの「ミスマルカ興国物語」シリーズ第7巻。世界を魔人たちによって統一しようと勢力を伸ばすグランマーセナル帝国が、中原へと侵攻してミスマルカ皇国へと攻め上がる時に、迎え撃つ30万もの中原諸国の連合軍に向けて発射し、爆発させた新型魔法兵器のボタンを押した帝国の二番姫、ユリカ・美ヶ島・マジスティアは、自分を戒めるように呟いた。

 「空に千の太陽が一度に輝いたなら、それは神の輝きにも似ているだろう。そしてわたしは破壊神、死神となる」。そして「主よ、どうか我らに……」と続けようとして言い換える。「……主よ、決して我らを許し給うことなかれ……!!」。

 その類い希なる魔導の資質で父皇帝の侵攻を手助けし、闇の法王と恐れられた彼女ですら、十万もの人々を一瞬にして消滅させる兵器の使用にはためらいを持ち、けれども必要なのだと心を固くし、罪を背負う覚悟でボタンを押した。かつて核兵器の開発を進めざるを得なかったロバート・オッペンハイマー博士のように。

 そう、ユリカがつぶやいた言葉はかつて、オッペンハイマー博士がロスアラモスで原子爆弾を開発し、ニューメキシコで最初の核実験を行った時に頭に浮かんだとう、ヒンズー教の教典「ヴァガヴァッド・ギーター」にある一節「我は死なり。世界の破壊者なり」が元になっている。

 原子爆弾の威力が、今戦っている戦争にどれだけの破壊と死をもたらすかを想像し、そして将来においてどれだけの恐怖を人類に与え続けるかを、聡明過ぎる科学者は直観したのだろう。そんな畏れをものともしないで、原子爆弾は広島に落とされ、続いて長崎に落とされ数十万人もの命を一瞬にして奪い、その後も奪い続けてそして、今も奪うことを止めない。

 なおかつ核兵器は進化を止めず、水素爆弾が作られ核ミサイルに搭載されて世界中にあふれ、一時の冷戦を生み危機感を煽りそして冷戦が終わった現在は、さらに拡散して、新たな国々が手にし国でない勢力すらも手にしていると言われるなか、いつ爆発するかもしれないと予感させながら世界に蔓延していたりする。

 ジョナサン・フェッター・ヴォームという、米国生まれで今はニューヨーク市のブルックリンに在住している作家・イラストレーターが描いたグラフィックドキュメント「私は世界の破壊者となった 原子爆弾の開発と投下」(翻訳・内田昌之、日本語版監修・澤田哲生、イースト・プレス)は、そのタイトルが表すように、原爆実験の際にその言葉をつぶやいたオッペンハイマー博士の核兵器開発からその後を追って描いた本。そこにはオッペンハイマー博士の苦悩が記され、世界の苦しみが描かれ核兵器という存在への畏れを今に刻みつける。

 読んで意外に映るのが、原爆投下をとかく正当化したがっているように思われがちな米国人だからといって、誰しもが原爆の開発や広島・長崎への投下を良しとしているのではないということだ。オッペンハイマー博士自身が、核兵器を生みだしたその手を血塗られたものとして、彼の戦果を讃えるトルーマン大統領との握手の際に告げて自戒し、トルーマンから毛嫌いされた。彼以外にも、新聞や報道で原爆投下のニュースを知った国民からも、いったい何をしたんだという驚きの声が上がったことを、このグラフィックドキュメントは伝えている。

 そしてそのことを、同じ米国人であるジョナサン・フェッター・ヴォームが描いているという部分に、あの国の過去も今も公正と公平を重んじたい人々の心理が見えてくる。とかく過去の非道を仕方ががなかったものだと正当化したい人たちが増え、溢れかえり叫び始めてそれを咎める声を潰そうとしがちな国とは違って。

 「私は世界の破壊者となった 原子爆弾の開発と投下」にはまた、原爆とは直接は関係のない東京大空襲の話も取り上げられている。そこには無辜の大勢の死者が出たことを描いてあって、東京大空襲とその他の日本の都市への焼夷弾による空襲が、戦争ではなく殺戮に近い行為だったことを示唆している。なおかつそうした行為を米国政府が、戦争の相手は日本軍ではなく日本国だからと言い繕う様も描いてある。

 そうやって何でも正当化しようとしていたあの時代の為政者なり、軍なり支持する人々への批判を、その国の人間が行っているところが興味深い。受けて米国ではいったいどんな反応があったのか。どこかの国では自虐史観ととられるかもしれない内容のこの本が、翻訳される前にどういう受け入れられ方をしていたのかが、おおいに気になる。

 左綴じで横書きにされている漫画、という面では日本の漫画を海外で売ろうとする際に、どのようにすべきかといった話とも絡んで、これが読みやすいかどうかといった面で参考になりそう。同じく原爆がテーマになっている中沢啓治の漫画「はだしのゲン」は、海外ではどのような感じで売られているのかも気になってくる。

 ただ言えるのは、そこに主張があれば右からであろうと、左からであろうと読まれるし受け入れられる。その意味で「私は世界の破壊者となった 原子爆弾の開発と投下」は左右のどちらから綴じられていようと、横書きであろうと縦書きに直されていなかろうと、無関係に読まれ、受け入れられるべき1冊だ。

 読んで日本人たちは原子爆弾を開発し、落とした米国に憤るべきなのか、それとも作品の中に描かれ人類の愚行とされた福島での原発事故を鑑みて、共に嘆き間違いを犯したと恥じて悔い改めるべきなのか。そんな示唆も与えてくれる1冊。オッペンハイマー博士には分厚い評伝も出ているけれど、それを読み通さなくてもこれ1冊あれば、彼の思い、彼の願いは浮かび上がって深く刺さる。読む人の体に。その心に。人類という存在に。


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