母親は兵士になった アメリカ社会の闇

 アメリカ合衆国の州兵といえば、かつては徴兵逃れの最善手で、ベトナム戦争に行くのを嫌がった息子のために、父親がコネで州兵に放り込んだりしたといった話が、大統領になった親子に関して語られていたりもした。そんな親子の息子の方が、大統領の時代に始めたイラクでの戦争の激化が、今や州兵を決して徴兵逃れの隠れ蓑ではなく、泥沼のイラク行きにつながる、決して狭くはない道にしてしまった。

 NHKスペシャルで放送された番組に関連して行った取材をまとめた高倉基也の「母親は兵士になった アメリカ社会の闇」(NHK出版、1500円)によれば、家計を助けたかったり、学費を稼ぎたいといった理由で州兵に登録して、年に2週間程度の任務をこなしつつお金をもらおうとしていた女性が、突然招集されて軍隊に入れられ、イラクに送られそして心に傷を負って帰ってきては、前のような夫や子供との明るい家族生活を送れなくなってしまっているらしい。

 もちろん、州兵が軍隊に編入される可能性は、決してゼロではないと分かっての登録だった訳で、それで招集されるのは決して理不尽な話とはいえない。女性だからといって戦争に行かずに済むというのも、女性は男性と同じことができるといって権利を獲得して来た動きに、逆行した話でもある。むしろ、戦場で男性と同等に戦えることを見せて愛国心を証明して、社会の中でも同等の地位を得ていこうといった動きの方が前にある。

 同等の権利が同質の仕事に重なるといった誤謬がないでもないが、国でも家族でも、大切なものを守るために銃を取りたいという気持ちには、男性も女性も違いはない。その延長として、国を守るために戦場に行くのは自然の流れといえばいえる。ただし、体力的な問題はどれだけ男女同権になってもついて回る話で、戦闘の最前線に出て白兵戦を挑むような任務が回ってくることはなく、ロジスティックを中心とした後方支援を中心に担っていた。

 問題は、そこが泥沼のイラク戦争だったということだ。市街地が戦いの場所となり、前線も後方もなく、米軍がいてイラク人がいるところをすべて戦場として考えておかなくてはいけない状況にある。後方支援などという言葉がイラクでは、何の意味も持たない。

 支援のためにトラックを走らせていても、街中で普通に襲撃を受ける。赤信号だからと車を止めたら、銃弾が雨霰と降ってくる。街道に出れば待ち伏せに遭って銃撃を受ける。近寄ってきた子供の笑顔に手を振り返したら、笑顔のままで銃を向けられる。

 太平洋戦争でもベトナムでもどこでも、そんなことはなかった。前線は前線として危地としてあり、後方は後方で前線よりは平穏でいられた。ところが、イラクではそうはいかない。どこもかしこもが戦場で、息を抜く暇もない状況に常にさらされ続ける。

 それなのに、仕事は後方支援だという建前で兵士にされた女性たちが、銃弾にさらされ祖国のため家族のために銃弾をばらまくこともあるという。その先にはもちろん人がいて、当たれば命は消えてなくなる。そうやって血まみれになった手で帰国した女性たちが、果たして子供を抱けるかのか。夫を愛せるかのか。できるはずがないといって悩む気持ちが、イラクから戻った女性たちの心をむしばみ、破壊しては病院へと送り込む。

 自爆テロが恐ろしくて人混みに出られなず、銃撃を食らうのが怖いからと赤信号で車を止められなくなる。それでは日常生活は送れない。引きこもりがちになって子供はほったらかしになる。夫は仕事を辞めて家につきっきりとなって子育てと妻の世話に心を砕く。家族全体のデザインがガラリと変わってしまう。

 収入はPTSDにかかった妻への慰労金くらい。もしも彼女が戦場へと行かなければ支払われるものではなかった金だ。そうした金が、イラク戦争が長引けば長引くほど積み重なっていく。国庫は圧迫され経済は停滞する。そうした影響も無視できなくなっているのに、アメリカはイラクから離れられないでいる。離れようとしないでいる。

 誰かのために戦っているんだという心のよりどころが持てない戦場で、覚悟も抱けないまま州兵から招集された女性たちが、銃を手に取らされ、戦わされては人を殺めて心を壊される。国民のためという戦争が、国民を不幸にしているアメリカの、こんな矛盾に目をつむれば、待ち受けるのは同じ不幸だと日本人に強く訴えかける内容を持った本と言えそうだ。

 それとも、アニメーションにライトノベルに漫画に映画といった場面に、戦闘美少女が氾濫しているこの国では、女性が戦場で暴れ回ったとしても、そういう暮らしは実在するのだと普通に受け入れたりするのだろうか。それはそれで頼もしくもあり、恐ろしくもある。皆兵となる状況を予測の上で、抵抗感をなくすべく戦闘美少女が描かれ、メディアの上で野放しにされているのだとしたら、かなりの策士がこの国にはいるということになる。

 誰もが何の不思議も抱かずに戦場に立ち、銃を撃って人を殺める日常を日常として受け入れてしまう国の行く末を思いながら、そうはならず女性もその夫も誰に怯えなくても良い、そして誰も殺めなくて良い日々を遅れるような未来の訪れをただひたすらに願いたい。そのために今できることを、すべての為政者はすべきだし、すべての人々は考えるべきだ。


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