逆転世界


 「人はSF者になるのではない、SF者として生まれて来るのだ」と言ったのは、高名なSF評論家だっただろうか。これが至言であることを、私は身を持って知っている。

 双子として生まれて来て、松本零司と手塚治虫をともに愛好し、「仮面ライダー」「ウルトラマン」「未来少年コナン」といったテレビ番組を見て育った兄弟が、今では、一方はSF者として本と漫画とアニメグッズとインターネットに年間七ケタに届こうかという金をつぎ込み、一方は結婚して子供も出来て朝7時には家を出て会社に向かい夜は8時に帰宅して一家団欒している。この違いは先天的に持って生まれた資質の違いとしか言いようがない。一見同じような塩基配列をしたDNAをバラバラにして調べてみると、一方にはSとFの頭文字を持った物質が、二重螺旋にこっそり紛れ込んでいることが解るだろう。

 SFばかり読んでいる兄に、弟は「登場人物のカタカナの名前がキライ」と言って、SFを読まない理由を説明したことがあった。日本人作家による日本人が主人公のSFだってあるわけだから、理由にはならないと思っていたが、最近、実家に返ると、あろうことかパトリシア・コーンウェルのシリーズが山積みになっているのを発見し、「外国人嫌いじゃねーじゃないか」と、1人憤慨したものである。体力負けするので面前と罵倒はしなかった。

 それはさておき、外国人名への感情移入の難しさは、SFに限らずすべての翻訳小説に当てはまることで、それを克服できた弟が、果たしてSFも読んでくれるかというと、そうは簡単にいきそうもない。日本人作家による日本人のSFすら読まなかったことから解るように、SFを読むためには、作者が想像力の限りを尽くして作り上げた非日常的な設定を、「そんなバカな」と笑い飛ばすことなく斟酌した上で、ドラマに没入していかなくてはならないからだ。

 英国SF協会賞を受賞したクリストファー・プリーストの「逆転世界」(創元SF文庫、安田均訳、750円)は、そんなSF的お約束を、読者に正面切って要求してくる作品だろう。冒頭の「ついに650マイルの歳になった」という1文を読み、SF者は「ただの世界じゃないぞ」と身構える。そして、次第に明らかになってくる、レールに載って移動する巨大都市という設定に、どうしてそんな世界が生まれたのかを知りたくて、わくわくしながらページをめくり続ける。

 巨大都市のなかで育った主人公が、成人式を経て都市の運営を司るギルドの1員として仕事に就くところから物語は始まる。主人公は生まれて初めて都市の外に出て、いびつに歪んだ太陽を見る。都市が移動し続けている様を自分の目で確かめ、都市の外から連れてきた女性を元いた集落へ返しに行く冒険で、世界そのものが歪んでいることを認識する。

 しかし、鬼才と呼ばれるクリストファー・プリーストが作り出した世界は、長年のSF者ですら、簡単に斟酌できない複雑さを持っていた。主人公の見た物を信じ、異様な世界を解ったつもりになって、そこで起こる数々のドラマを楽しんでいたSF者にとって、第4部以降の展開は、依って経つ土台を足下から崩され、SF的お約束の寛容という、しらずしらずの内に傲慢になっていた自分の読書態度を、強くいさめる。

 あとがきの中で訳者の安田均さんは、「SFエンサイクロペディア」から「認識の変革」という言葉を引き、「このテーマを無視しては、説得力あるSFの定義は成立しない」という文章を引用してる。「逆転世界」では第1に、移動する都市に住む主人公たちの認識に合わせて自らの認識を変革し、彼らの世界観を受けとめなくてはならない。それが第4部以降で、まったく別の視点から、都市の人々の認識を見つめ治す機会を得て、再度の認識の変革を求められることになる。こうして認識の変化を繰り返すことによって、人は様々な困難に、逃避ではなく前向きに立ち向かえるだけの、柔軟な思考力を持つようになるのだろう。

 先年翻訳されたプリーストの「魔法」(早川書房、古沢嘉通訳、2500円)では、登場人物ごとに異なった世界への認識が語られ、何が真実で何が虚構か解らないままに、読者は世界観が揺らぎ始めるのを感じることになる。「魔法」の発売と、今回の「逆転世界」の再刊によって、日本でのプリースト人気が高まり、未訳の長短編が次々と紹介され始めることを切に願う。

 ちょっと蛇足。双子の兄は残念なことに、様々な困難から逃避するための思考力だけが発達し、2次元の世界に耽溺する人生を送ることになった。こうなれば被害者は多い方がいい。さあ弟よ、今からでも遅くないから、SFを読んで柔軟な思考力を養いたまえ。「そのうちなんとかなるだろう」ってな具合に、お気楽な生活が遅れるからさ。


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