グランドクロス・ベイビー

 日経新聞の最終面のちょっとエッチな小説が、サラリーマンに人気あるって話はよく聞くけれど、なんかそれって、スケベ雑誌の上にビジネス書とか哲学書とかを重ね合わせて、レジに持ってくみたいでカッコ悪い。目的はどうせ同じ「抜くこと」なんだから、スポーツ新聞に連載されているポルノ小説を、正々堂々と読んだほうが気持ちいいんじゃない? どエッチな描写がほとんど毎日出てくるし。

 その点、栗本薫さんの「グランドクロス・ベイビー」(角川書店、1400円)なんかスゴイよ。スポーツニッポンに95年の1月から半年間にわたって連載された小説なんだけど、ホント10ページに1回はセックスやってる。電車の中なんかで、美人のOLの前に立って読みはじめようモンなら、たちまち困ったことになっちゃう。足をすり合わせてモジモジしたり、懸命に数字を1から100まで数えたり。それで1回は収まっても、またすぐに股間がモゾモゾしてくるから同じことなんだけど。

 新聞に連載されていた時に、毎朝この小説を平気な顔して電車の中で読んでいたお父さんがいたら、オレ尊敬しちゃうよ。女子高生の娘がいるお父さんならなおさらだ。だってこの小説、17歳の女子高生がアイドル追っかける金溜めんのにウリやって、シマを仕切ってるヤクザにバレてオンナにされて、でもやっぱりアイドルのことが忘れられなくてって話なんだぜ。もしかして「ウチの子に限って」って考えてた、とか。

 正直オレだって、今の女子高生の「性態」ってわかんないよ。自分が高校生の時(10年以上も前だけど)だってわかんなかったけど。モテなかったし。でもね、「グランドクロス・ベイビー」に書かれているようなことが日常茶飯事に行われていたとしても、決して驚かない。なぜなら「グランドクロス・ベイビー」って、描写してある内容こそ違え、昔から読み継がれてきた「純愛小説」なんだから。

 あこがれの、けれど決して届かない人がいて、はじめは何とも思ってなかったけど、優しくされるうちに心が傾いていく不良がいて、それでもやっぱりあこがれの人が忘れられなくって、そのあこがれの人に好きな人がいたってわかって嫉妬する。不良のかわりにヤクザ、甘いキッスのかわりにセックス、女のかわりに男。時代がかわってるんだから、キャラクターだってかわらあな。

 それにしても、栗本薫さん、この小説をどんな読者に向けて書いたんだろう。スポーツニッポンていえば、たぶん男が9割くらいの読者だろうし、そこに連載されている「ポルノ小説」は、10中10割男だろう。とりあえずの読者は男。そして男は、ヤクザの阿久津に自分を投射して、主人公の17歳の女子高生とのセックスを楽しむんだ。

 でも主人公の1人称で書かれた小説は、読み手の感情をどうしても語り手に引っぱり込むことになる。1人称で書かれた「グランドクロス・ベイビー」でも、女子高生に自分を投射してヤクザの阿久津に犯りまくられる妙な気持ちを味わうことになる。そして、1999年のグランドクロスで世界が滅亡すると信じてる、今の10代の厭世観に気持ちが染められてしまう。セックス描写は別にして、けっこうのめり込んで読めたオレって、優しいフリしたバカか、ケツが気になるヘンタイなのかもしれないなあ。

 あるいは、主人公と同世代の女子高生を想定して書いていたのかもしれない。今回単行本になって、主人公と同世代の女子高生も堂々と「グランドクロス・ベイビー」を手に取ることになるんだろう。そしてたぶん、そこに書かれてあることを、心のなかで理屈をこねまわすことなしに、「純愛小説」として読むんだろう。

 「純ポルノ小説」が「純愛小説」と同義語になりつつある時代を、オレたちの世代はどう生きていけばいいんだろう。

積ん読パラダイスへ戻る