ゴールド −黄金−

 日本でSFの「御三家」といえば、順不同で星新一、小松左京、筒井康隆の3人だった。星の方が若干デビューが早く、小松と筒井に関しては、同じ頃に眉村卓、光瀬龍、平井和正、豊田有恒、半村良らがデビューしているのだが、本の売れ行きや人気の差なのだろうか、暗黙のうちに3人に決まってしまった。

 一方、SFの本場アメリカでは、ロバート・A・ハインライン、アーサー・C・クラークそしてアイザック・アシモフのことを、御三家ならぬ「ビッグスリー」と呼ぶ。このうちハインラインが88年に80歳で、またアシモフが92年に72歳で世を去ったが、同じ1939年にデビューを飾ったこの2人は、亡くなる瞬間まで「ビッグスリー」の1人であり、亡くなった今もなお、本の売れ行きと人気で、「ビッグスリー」の2角を堅持している。

 そしてスリランカに健在のクラークも、出す本はほとんどがベストセラーのリストに入る人気を保ち続けている。ハインラインとアシモフに7年も遅れてデビューしたクラークだが、それですら執筆期間は50年にも及ぶ。

 再び日本に目を転じて、誰がいったい50年ものキャリアを持ち、なおかつ今も現役でSFを書き続けているのだろうか。1960年の「SFマガジン」の創刊をきっかけに、次々と世に出てきた前出のSF作家たちは、確かに今も健在だが、しばしの沈黙を経て旺盛な執筆意欲を取り戻し、毎月のように新刊を出している平井和正をのぞけば、「SF」の作家として現役で、かつベストセラーとなるような作品を発表している人はごく希だ。

 (断筆中の筒井は創作意欲は旺盛で、発表こそしないものの日々「新作」を書きためている。世に出ればベストセラーは確実だろう。かえすがえす残念でならない)

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 アシモフの死後、彼が雑誌などに発表したSFや創作に関するエッセイに、ロボット物の短編SF、ショート・ショート、そしてヒューゴー賞を受賞した表題作を収録した「ゴールド−黄金−」(早川書房、2200円)には、彼が亡くなる50年あまりの現役時代を、常に「ビッグスリー」であり続けた自信を示す、ともすれば傲慢とも取られかねない文章が並んでいる。しかし同時に、自分の名前を冠したSF雑誌を発行して、新人の育成にも力を注いだアシモフの、なかなか「ビッグスリー」の1角を崩す新人が現れてこないことへの、いらだちにも似た気持ちが込められているように感じられる。

 「ふと気がついておもしろいと思ったのは、SF作家の寿命が10年(またはそれ以下)しかないことが多いという点だ」(266ページ)。アシモフですら「成功した作家となってからさらに17年もしないと、作家での収入で満足な生活ができるようにはならなかった」(348ページ)世界で、10年はあまりにも短い。

 作家歴が40年以上に及び、今なお執筆を続けているSF作家を「恐竜」ならぬ「生存者」と定義付けたエッセイでは、「『生存者』とは(わたしも含めて)SFの大黒柱なのだ」(271ページ)と自身たっぷりに話し、続けて「こういった人間が、将来どれくらい出てくることだろうか」と疑問を呈する。

 アシモフだから、あるいはハインラインだからクラークだから、アイディアが泉のように湧きい出て、次々と作品をものにすることができたのだと言う人もいるだろう。確かにそれは1面だが、生涯に470冊以上の本をアシモフですら「考えて考えて窓から飛び出したくなるまで考えぬくんだよ」(323ページ)と、決して韜晦ではなく言っている。

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 冒頭に納められている短編「キャル」は、作家になりたくてなりたくて仕方のないロボットが、主人に頼んで作家になるための知恵を付けてもらい、結果主人よりすばらしい作品を書いてしまう作品だ。「作家になりたい」というロボット「キャル」の気持ちは、そのままアシモフの気持ちであったろうし、すばらしい仕事をした「キャル」を妬んで、その才能を摘もうと決める作家の気持ちも、常に負われる立場にあり、時には(たとえ一瞬でも)抜かれることのあったアシモフの、悔しい気持ちを代弁したものといえるだろう。

 だがそんな作家の気持ちは、同時にアシモフの願望ではなかったか。たとえロボットでもいいから、自分を越えてそのまま居座り続ける作家を見てみたかったのではなかったか。

 表題作の「ゴールド−黄金−」には、自分の作品を永遠に残したいといって、演出家のところに「コンピュ・ドラマ」化を依頼にくる作家が描かれている。名を残したいという願望は、アシモフに限らずすべての作家の願望であり、「コンピュ・ドラマ」化を以来した作家は、1面でアシモフ自身の願望を投影した存在だといえる。だが、登場人物に関する一切の描写を省いた観念だけの作品を、「コンピュ・ドラマ」によって立体映像化しようとした演出家もまたアシモフ自身なのだ。

 かつて「レイバーデイ・グループ」と呼ばれる一群がいた。人気も実力もあり、レイバーデイに開かれるヒューゴー賞の授賞式で、常に壇上に立ち続けていたことからこう呼ばれるようになったと記憶している。その時代、アシモフやハインラインはクラークは終わった人々と見下されることもしばしばあった。しかし時がすぎ、それこそ「SF作家の寿命が10年」を地で行くように、「レイバーデイ・グループ」が第1線から退き始めると、代わって登場したのはアシモフでありハインラインでありクラークだった。

 観念的な作品に視覚や聴覚に働きかける「プラスアルファ」を与えて、永遠に残すことのできる存在、それが演出家(=アシモフ)であると言いたかったのではないか。ちなみに演出家に「コンピュ・ドラマ」化を依頼する作家の名前は、グレゴリー・レイバリアンと言う。

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 皮肉ともとれる筋書きを持った「ゴールド−黄金−」で、皮肉にもヒューゴー賞を受賞したアシモフは、この作品を絶筆にして世を去った。ただ、存命が条件だった「生存者」としての資格を失っても、アシモフがやはり「ビッグスリー」であることには代わりがないし、彼を越える新御三家も当分現れそうにない。

 「御三家」が沈黙してしまった日本と、2角を失った「ビッグスリー」が未だに君臨し続ける米国と、SFにとって事態はどちらがより深刻だろうか。今の自分のように、おもしろいと感じる作品が年に1作でも出ていればいいと、満足してしまっていて良いのだろうか。疑問はつきないが、さりとてアシモフはもういない。彼が答えてくれないのなら、答えは自分で見つけるしかない。40年たっても、僕はまだアシモフやハインラインの没した年齢に達しないのだから。


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