ゴジラとアメリカの半世紀
GODZILLA ON MY MIND

 『とりわけSFファンは、はぐれ者の可能性が高く、まちがいなく負け犬だという烙印が押される。いくら外見上は「まとも」に見えたとしても、友人、親戚、職場の同僚たちは百発百中当人を未婚で太り過ぎの四十代、ワンサイズ下のTシャツとひとまわり大き過ぎるスウェットパンツを着用し、空想の世界でドクター・フーとの知恵比べに興じたり、ミスター・スポックと立体チェス対決、あるいはレイア姫とベッドインなどといったことをことこまかに思い描く人間だろうと想像するのである』(15ページ)。

 なるほど同感と思った人は起立。そのまま書店へと向かいウィリアム・M・ツツイという名の男が書いた「ゴジラとアメリカの半世紀」(神山京子訳、中央公論新社、2000円)を購入すべし。ハーバード大学やオックスフォード大学といったアメリカでも、というより世界でも有数の大学を出た秀才で、今はカンザス大で歴史学を研究している著者。その彼が「ゴジラとアメリカの半世紀」でアメリカにおけるSFファンの認知のされ方を実にリアルに描写している。

 それはまるで日本人と同質。レイア姫が綾波レイなり誰かへと代わりミスター・スポックやドクター・フーが他の誰かに代わる程度でそのまま日本人のSFファン、あるいはオタクと呼ばれる人たちの性向とぴったり重なる。そしてそれはそのまま洋の東西を問わず世界に広がる”OTAKU NETWORK”の大きさを示す言葉となっている。

 さら日米SFファン気質の共通性は「ゴジラ」が日米で受け入れられている事実も補強する。「ゴジラとアメリカの半世紀」(神崎京子訳、中央公論新社)が語るのは、SFの話ではなく日本が生んで世界が恐怖したキング・オブ・モンスター、「ゴジラ」の米国での受容のさせ方だ。映画というエンターテインメントのみならず、文化や社会の隅々にまで「ゴジラ」がどれほど行き渡っているかを、「ゴジラとアメリカの半世紀」は様々な事例を挙げて分析している。

 たとえば「ズィラ」って名詞の後ろに付いてデカさとか強さなんかを現す表現がたくさんあるらしい。挙げるなら結婚した途端に強欲きわまりない人間になってしまった女性は、「ブライドズィラ」と呼ばれ畏れられているという。政治的には2001年のテロを景気に国際的に討って出るようになった米国を、「ニューヨーク・タイムズ」がそのままずばり「ゴジラに豹変した」と解説したこと等々。他に例える物のないくらい、「ゴジラ」は力と破壊の象徴になっている。

 破壊的なバッティングを見せる松井秀喜を選手を日本人が「ゴジラ」と呼んだことと、これは同じ理解の上にある。なおかつ松井選手はアメリカでも「ゴジラ」と呼ばれ親しまれている。例え日本から持ち込まれたニックネームでも、そのまま使わないのがアメリカの矜持。にも関わらず「ゴジラ」と呼ばれる松井選手に、日本もアメリカもともに共通のイメージを抱いていたことの現れだろう。

 それにしても何と”ゴジラ愛”にあふれた本であることか。9歳の時に自作の着ぐるみで近所を歩き回って恥ずかしい想いをした記憶を引きずりながらも、公開されれば見に行き昭和のシリーズに不満を抱きつつ平成のシリーズに不安を覚えつつ、それでもトライスターが作ったハリウッド版の「ゴジラ」に比べれば、どんな日本の「ゴジラ」作品だって素晴らしいんだと言い切る。

 「ゴジラ」を愛すればこその爆発を辞さない熱血漢。その情愛を抱き著者がアメリカじゅうを歩いて出会ったゴジラファンたちも、著者に負けず劣らずの”ゴジラ愛”に溢れてるのが微笑ましい。「同年代の友だちの目が気になる思春期をとうに通り越している人々−の大半は、ファンについてまわる苦労を、あきらめやユーモア、あるいはある種の開き直りをもって甘受している」という対象との接し方は、日本のアニメやゲームや特撮を愛するオタクたちと同じだ。

 僕たちは分かり合える。日米は仲良くできるんだと、そんなことを教えてくれるウィリアム・M・ツツイさんに感謝。そして「ゴジラとアメリカの半世紀」が示した日本とアメリカに渡された巨大にして極太の架け橋の大きさを、もっと大勢の人に意識してもらうよう、本書をより大勢の人に進め読ませて浸らせよう。

 そして願おう。オタク世代が合衆国大統領に選ばれる日を。日本の首相がオタク世代から出現るつ時を。中国の、欧州の、世界の首脳のすべたが供にSFを、特撮を、アニメを愛する世代にとって代わる世紀の訪れを。そうなった時、世界は愛と平和とフィギュアとジャンクフードに満たされるはずだ。


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