ガールズメガネ

 はっきり言えば全然違う。これは決してメガネっ娘好きたちが求めていたメガネっ娘写真集などではない。

 太田出版から刊行された「ガールズメガネ」(撮影・西村智晴、1300円)。なるほど実に55人もの女の子たちが、それぞれにメガネをかけた姿で登場してはカメラに向かって微笑んだり、口元を引き締めたり無関心を装った表情で写っている。メガネ好きなら飛びつくはず。そんな作り手の魂胆がそこに透けて見える。

 けれども。そのメガネのことごとくが横に細長く縦に幅の狭いタイプ。掛ければ原宿代官山あたりを歩いても違和感なく溶けこめるオシャレ系のメガネばかりだ。言葉を換えればトミフェブ系の女の子たちばかり。いわゆるメガネっ娘好きがその表情を見て抱くのは、憧れでもなければ感嘆でもない。

 異質感。そう、まるで自分たちとは違う場所に生きる人たちの、まるで違う場所に生きている自分たちなど眼中にはないとった澄ました態度への反感だ。共感? 抱けるはずがない。萌え? 感じることなど不可能だ。

 せめて彼女たちの視線に蔑視のビームが混じってくれていさえいたら、その視線に心を抉られ身もだえ出来ただろう。あるいは嫌悪してくれていたら、その悪意を無理矢理好意に読み替えて、妄想の中に閉じこもることが出来た。けれども「ガールズメガネ」に載ったメガネガールズたちからは、そんな感情の操作ができない。彼女たちのあっけらかんとしたメガネ顔では、そんな捻れた喜びを感じることができないのだ。

 「チェルシ」というなの21歳の女性。ヘリンボーンツイードのマキシコートの裾から黒いストッキングの足をのぞかせ、頭にベレー帽を被りタータンチェックのマフラーを巻いた赤いセルフレームのその足下に、跪きたいという気が君には起こるか?

 「兼岩舞沙」という名の19歳の少女。アシンメトリなメルトン素材のジャケットの前身から白いシャツを見せつつ足首まであるロングスカートで足の細さも太さも覆い隠し首にニットのマフラーを巻いた大きめの黒いスクウェアなセルフレームのメガネをかけたその顔を抱きしめたいを君は思うか?

 あまつさえこの少女は視力がともに1・5。つまりは伊達メガネだ。他にも大勢の伊達メガネが混じってメガネガールとしてたたずみ写真に撮られている「ガールズメガネ」をメガネっ娘に憧れるメガネスキーな男子のバイブルだと、掲げ崇めて讃えることの難しさというものに、多くの読者が迷い悩むことだろう。

 そして問うだろう。三つ編みのお下げにメタルフレームのウェリントン。セーラー服の腕に委員長を書かれた腕章を巻いた少女から、ガラス越しに冷たい視線が突き刺ささるようなシチュエーションが、どうしてないのかと。

 前髪の切りそろえられたストレートヘアの下にのぞくやや大きめの細いセルフレーム製ボストン。ぞろりとしたピンクハウス系の衣装を着て手にバスケットなんぞを持った少女の鼻にかかったメガネにはまるプラスチックレンズを透して、くりくりとした好奇心旺盛な眼差しが向けられるシチュエーションが、どうして存在しないのかと。

 あるのはひたすらにトミフェブ系な女たちによる、私たちって最先端を歩くメガネ女子でしょ、といった雰囲気の滲んだ視線であり、また銀座表参道を闊歩する演出知性派の女たちによる、何だよ一体写真に撮って誰が読むってんだよ、といった的胡散臭げな心情を笑顔で隠した裏のありそうな眼差しばかりだ。

 そんな写真集をいったい誰が買い、何を目的に眺めるのだろう。もしも心底よりメガネっ娘を愛する団体があったとしたら、その尖兵たちは遠からず太田出版へと乗り込んで、その出版意図を糾し隠された企みを粉砕しては、正統にして伝統的なメガネっ娘の写真集を作り出すことを、出版社に確約させるだろう。

 帯にあるこの言葉。「街のおしゃれなメガネ女子、総ざらいスナップ。」とは一体何だ? 一体どこの街なのだ? 原宿か? 江古田か? 違う。断じて違う。そこは秋葉原でなくてはならない。夏と冬の有明でなければならない。そこで撮られたメガネっ娘たちの写真こそ、憧れる側の心理までもしっかりと押さえた「ガールズメガネforボーイズ」なのだ。

 救いがあるとすれば、心底よりのメガネスキーであり、メガネガールズの神髄に精通した桜坂洋が短編「サーティースリー・マイナスマイナス・ドットドット」を寄せていることだろう。

 ドジではないと力説するドジっ娘で「どちらかというと真面目でメガネでスカート長め」で「いわゆる委員長顔というやつで、全国委員長コンテストなどというものを開催したらけっこういいところまで行くかもしれない」顔立ちで、素顔を見られたと怒り猫パンチを顎に繰り出す少女を描いた物語。これだ。この少女をこそ写真で表現するべきだったのだ。

 そう想って桜坂洋は、居並ぶオシャレなメガネ嬢たちの姿に憤り、真のメガネガールズをそこに現出すべく物語を綴ったのだと信じたい。逆に掲載されるすべてのメガネガールを知ってそれをメガネガールズだと認めていたのだとしたら? その時は太田出版を襲ったメガネっ娘を愛する団体が、次なるターゲットとしてその元へとはせ参じ、本意を糾すだろう。

 メガネっ娘とはかくも奥の深い存在であり、また触れるに難しい存在なのだ。後続の意を持つ出版社は、覚悟して事に当たるように。


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