銀月のソルトレージュ
ひとつめの虚言

 古代ギリシアの詩人・ホメロスが綴った叙事詩「イリアス」に登場する都市トロイア。ギリシア軍との長き戦争を経て破壊され、一切の痕跡を後世に伝えることなく消え去ったその都市を、人は神話に登場するだけの架空の存在だと考えた。しかし、19世紀に入って、1人の男が異を唱えた。

 ハインリッヒ・シュリーマン。「イリアス」の記述を事実と信じ、伝承をもとに所在地を探し、私財を投じて発掘を行うこと20余年。自身は途中で没しながらも、後を継いだ考古学者の手によって、そこが叙事詩にうたわれた「トロイア」だと立証された。

 神話は作り話ではない。神話にも真実が含まれている。そう人に考えさせ、シンジさせる1つの大きな根拠を、シュリーマンの物語は人々に与えている。

 もっとも、すべてが真実とは限らない。トロイアはあった。が、そこでヘクトルとアキレウスが一騎打ちを演じたかは定かでない。軍隊が中に乗り込めるくらいの巨大な木馬が作られたという証拠もない。巨大な古代都市がそこにあり、大規模な戦争がそこで行われたという事実だけが推定できるのみ。それでも人は勇猛果敢なアキレウスの姿を、オデュッセウスの奸計を、すべての原因となったヘレネの美貌を思い浮かべて、歴史のページに事実と刻む。

 絢爛たる神話。悲劇に満ちた伝承。勇躍とさせる民話。描かれる物語が心を刺激するものであればあるほど、人は物語を事実と信じ込む。けれどもそれが真実なのかは別の話だ。なるほど帰結は物語のままだったとしても、間に起こった出来事が、登場する人々の考え方が、真実そのままであるとは限らない。枯野瑛が「銀月のソルトレージュ ひとつめの虚言」(富士見ファンタジア文庫、580円)に描くのも、そんな物語がはらむ事実と真実の誤謬だ。

 とある王国の滅亡を記した、200年前から伝わる物語があった。仲の良かった姉姫と妹姫が、王位継承をめぐり対立する悲劇が起こり、妹姫に座を奪われた姉姫は怒り出奔。そして魔女となり、生まれた国を脅かすものの、討伐に立った騎士たちに追いつめられ、討ち滅ぼされる。それから200年前。世は平穏の中にあって、学生たちが集まり勉学に、運動に、文化的な活動に勤しんでいた。

 騎士道的な風潮が残り、女性をかけて決闘を行われることもあったが、使われるのは命に危険の及ばない武具。そして、主人公のリュカ・エルモノトは、隣家に住んで幼げな表情から全校生徒憧れの的となっている少女・アリスの庇護者と見なされ、次々と決闘を申し込まれるものの、これをことごとく撃退していた。

 もっとも当人には、アリスを我がものとしている意識はない。アリスも今はリュカを兄と慕っている程度。いずれ長ずれば恋愛関係も芽生えていくのかと見られていたところに、事件が持ち上がった。

 銀髪をした見知らぬ少女が現れて、リュカを何かと見なして細身の剣で貫いた。これは死んだ。そう観念したリュカだったが、なぜか死なずに済んだ。いったい銀髪の少女は誰だったの? 思案していたところに、レオネルという名の男が現れ、告げられた。リュカを刺した少女は、5年前、500人の村人が瞬時に焼け死に、リュカだけが焼け出された大火事の中に消えた、魔法使いの少女フィオルを探しているのだと。

 蘇る記憶の中で、自分の面倒を見てくれた不思議な力の持ち主フィオルの行く末と、彼女を脅かし村を破滅へと追いやった犯人の存在に思い至り、リュカはレオネルと共闘して銀髪の少女を追い始めた。そんなリュカの前に現れたその少女は、リュカがまだ生きていることに驚き、そして200年前に起こった事の真相を語り始めた。

 現代に舞台として再現される伝承を少しづつ描きながら、それに重ねて過去の真実を見せていく構成の妙が冴え渡る。キャラクターたちも優しいリュカ、可愛いくてほわほわとしているようで、妙に鋭いところのあるアリス、人当たりがよさそうに見えて、実はしたたかなレオネルと、それぞれが個性的な上に、表面的な雰囲気とは違う心の複雑さを持っており、引きつけられる。

 何が真相で、誰が正義なのかが入れ替わっていく展開も、興奮を誘われる。そして残された最大の謎を引っ張りつつ終わるエンディングには、次への期待を否が応でも掻き立てられる。姉姫と妹姫のめぐる伝承の真相。そして消えたフィオルの行方。秘密めく力を持って生きのびたリュカの内に眠るもの。それらが語られ、そして世界に散らばる邪な力を持った存在との戦いの果てに浮かび上がる、真の歴史を今に見たい。紡がれる歴史に立ち会いたい。

 枯野瑛の単著としては、04年9月に刊行の「echo 夜、踊る羊たち」(ファミ通文庫)以来となる小説。民話が現代の街に重なっては、寂しさに沈む人間の心を迷わせつつも、前へと向かう力を与えて去る快復の物語だったの前作に対して、新作では、伝承が人の口を経て得た衣を脱ぎ捨て、現実として後世に立ち上がる。希望と願望にあふれた伝承と残酷な事実との対比を通し、人間の楽観に流れる心理を示唆しつつ、絶望の中に長い時を生きる伝承の主たちの苦闘に目を見張ろう。


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