玩具修理者

 西瓜に塩をかけるとより旨い、とかお汁粉に塩を入れるとより甘い、とかいろいろな”ミスマッチ”とも言える用法が日本にはある。日本には、と言ったのは昔読んだ雑誌でイタリアでは西瓜に砂糖をかけるとあったためで、お汁粉はそもそも外国には無いから日本オリジナルの発想と言えるだろう。アイスクリームに醤油、ってのも入れて良いのかな。カレーに醤油、ってのはちょっと違うと思うけど。

 でもって何が言いたいのかというと、ホラーコミックに見れば卒倒するかのようなオドロな絵じゃなく、見目麗しいキュートな絵柄を当てはめることで、かえって恐怖感が増すってこと。ちょっと連想が強引かもしれないけれど、耐えてそうかもしれないな、と見逃して戴ければ有り難い。まあ読んでもらえればこの気持ち、きっと解ってもらえるはずだと思うから。

 MEIMU、という漫画家についての思い出は「HOUSE OF THE HORROR」(ワニブックス、900円)の感想でも書いたから重複は避けるとして、ここではかつてのロリータな雰囲気の作品から、今はホラーの世界で押しも押されぬ地位をその実力でもって築き上げている事だけを、強く訴えておこう。その実力のほどは、ホラー作家のホープとしてやはり押しも押されぬ人気をその実力でもって獲得している小林泰三の原作を元に描いた「玩具修理者」(角川書店、780円)で、存分に発揮されている。

 まずは表題作の「玩具修理者」。実は原作を未だ読んでいないため、比較した言及を行えないのが難だけど、先に読んだのがMEIMUの漫画だった身に、果たして原作により恐怖感を覚えられるのか、その方がいっそう難事のような気がしてならない。主人公は美少女、でもってベビーカーを押して向かおうとしているのが、”ようぐそふとほうとふ”つまりは”玩具修理者”の下だった。

 幼い頃に人形を持って訪れた”玩具修理者”の小屋で、少女は人形を直してもらい、友人は死んだ猫を直してもらった。ともに動くようになった人形と猫、けれども前とどこか違うと感じたにも関わらず、少女は長じてもなお”玩具修理者”の下へとベビーカーに姉の子供を乗せて、向かわねばならない理由があった。

 死んだ者でも物であっても直す”玩具修理者”。問い掛けられるのはその”玩具修理者”によって直された者が、果たしてれっきとした者なのか、それとも物へと化すのかという命題。者でも物でも見た目が同じなら同じだと少女は自問自答する。けれども道中で突如浮かんだ自らの過去を描き出した記憶が、少女をその存在の曖昧さによって恐慌に陥れ、読者をも逡巡の境地へと至らしめる。

 自分は者か、それとも物か。どこまでも愛らしく、どこまでも美しい少女が空想した、それとも現実に身体を苛んだ恐慌は、言葉で語られてもおそらくは相当に痛ましい。ましてやMEIMUの描く限りなく愛らしく、限りなく美しい少女が醜悪な変貌を遂げる様は、間にある格差もまた限りなく、読者に極大の衝撃を与えて止まない。

 より醜悪なのが、ブタによって身体のほとんどをすげ替えられた美少女の悲劇を描いた「人獣細工」だろう。先天性の病で臓器のほとんどに欠陥のあった少女は、臓器移植を専門とする父親によって自らの遺伝子を組み込まれたタブの臓器を移植され、かろうじて生を得ていた。

 メアリ・シェリーの描く怪物に自らを重ね合わせ、怪物の方が人の組み合わせによって作られたが故に幸せだと感じる彼女の葛藤たるやいかばかりか。MEIMUの描く少女がまた美の極地を行くだけに、見た目と実際のギャップが、描かれた絵と語られた物語、少女の外見とブタの臓器という2重の意味で読者を深淵なる洞窟へと誘う。

 「吸血狩り」にしても「兆」にしても「本」にしても、美麗な線で描かれる少女たちを待ち受けるオドロな線で描かれる運命が、激しい段差となって読む手を躓かせる。外見が美しいからといって内面が美しいとは限らない。見た目が者だからといって実は物に過ぎないのかもしれない。逆もまた言えるだろう。外見の醜悪さも内面の醜悪さを保証するものではないのだ。

 生と死の境目の曖昧さを強く問い、外見と内面のギャップを深くえぐり出した上でさらに、それらを超越した所にあるただ”在る”ことへの認識を得られればかえって喜びも感じられよう。だが、そこまで自らを達観できない読者としては、存在の不確かさに振り回され引きずり回され恐怖に溺れるより他はない。ましてやMEIMUの描いた「玩具修理者」はビジュアルによってギャップが増幅されているのだ。

 もはや西瓜に塩、お汁粉に塩、アイスクリームに醤油の比ではない。ギャップが醸し出す極大の恐怖に、恐れおののき哭き喚け。


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