FUWAFUWA NO IZUMI
ふわふわの泉

 2001年4月29日にカナダ大使館で開催されたカナダのSF作家、ロバート・J・ソウヤーへのインタビューで、知性とは何かを問われたソウヤーは「知性」と「意識」の違いを考慮する必要性を唱えた。例えばカラスは鳥の中では頭が良く、何かしらの「知性」を備えていそうに見える。だが「意識」があるかというとチンパンジーのようにはいかない。額にマークを付けられたチンパンジーは鏡に写った自分の姿を見た時に、鏡ではなく自分の頭を触るという。

 これがどれだけ意味深い意見なのかは想像の及ぶところではないが、自分という存在、自分という個体を「意識」することはすなわち他者を「意識」することにつながるのでは、という飛躍は果たして可能だろうか。自分を「意識」し他者を「意識」することで、そこには関係性が生まれ相互作用が起こり進歩へとつながったと考えることも。

 道具を使う、火を使うといった部分での「知性」だけではない、自分が自分であるということを「意識」する力があったからこそ、人類はこの地上に最初いして最大の、もしかすれば最後の大帝国をうち立てることができた。あながち的はずれな考えではないような気がする。「人は一人では生きられない」。なるほど至言である。

 だがもしも、というよりだからこそ、人は人が人としてたどり着ける場所でしか生きていけないのだとしたら、これは悲しむべきことなのだろうか。たとえば近い未来、あるいは遠い未来、広大無辺の宇宙へと人が出ていくことが技術的に可能になったとしても、人は宇宙の深淵へと旅して人以外のコミュニケーションが可能な「知性」と邂逅することはかなわない、永遠に独りぼっちなのだと分かったら、人は絶望するものなのだろうか。

 野尻抱介の「ふわふわの泉」(エンターブレイン、640円)で提示されているのは、人類が惑星レベルではなく銀河レベルで宇宙へと乗り出すには厳しい生命体なのではないかという疑問だ。独立して育んだ「知性」ではなく、誰かしら、何かしらとの関係性の中で成立している存在なんだという指摘から派生させ、例え「意識」をコンピューターなりチップなり別の何かに移し替えて永遠の生を得たとしても、たった”一人”では広大無辺な宇宙のとば口にすら立てないのではないかという、哲学的にも生物学的にも社会学的にも興味深いテーマを読む人に投げかけている。

 主題か、というと実は違う。いや主題の一つかもしれないが、前面に押し立てられたものとはなかなかに言い難い。むしろ物語は、高校の科学クラブで実験をしていた女子高生の浅倉泉がふとしたはずみてとてつもない物質の製造方法を発見してしまって大騒動を巻き起こし、会社を作って商品を生み出し、それが人間のライフスタイルを劇的に変化させて行くという、アイディア的にもシチュエーションの妙にも富んだ、良質のエンターテインメント作品に仕上がっている。

 強靱にして軽く宙に浮く物質がもたらした恩恵は、ひとつには空中コミュニティーの創出へとつながっていく。国境を気にせず領空を超えて自由に行き来する人たちが作り上げた自給自足のコミューンは、土地という国家的に規定された場所を離れた強みを取り込んで、かつてない自在で自由なライフスタイルを世の中にもたらす。もちろん空中であっても一部に国境は厳然として存在するが、そうした困難が超えられた時にもたらされる何かへの期待を、否が応でも煽りたててくれる。

 もうひとつが宇宙への架け橋の構築だ。宇宙へと伸びる軌道カタパルトを造り上げ、ロケットのような高価で無駄の多いテクノロジーとは違った、簡単に容易く宇宙へと出向いてはそこを利用するようになる未来への可能性を示唆してくれる。原点となった女子高生の発明の是非はともかく、ひとつのキーテクノロジーがもたらされて以降の推移についてはおそらく、厳密にして緻密な計算と果てしなき想像力の発露があったはず。希望をもたらる科学の力が読む人の科学への関心、科学の知識を高め、それでいて単なる学習小説にならないストーリー性、思弁性が読む人の想像力をかきたてる。

 ただ、パッケージの関係なのだろうか、繰り出される豊富なアイディアが時にハイスピードだったり、時に溢れかえっていたりして、一気に食べるとめまいがしてくるのもまた事実。冒頭の素晴らしい発見から、それがもたらした空中コミュニティーの生成あたりまでを前半のハイライトとして扱いつつ、間に陰謀とか騒動とかを起こしてストーリーを盛り上げ、テクノロジーが持つ良い面と悪い面を読んでいる人に考えさせるのも一興だっただろう。そして後段の軌道カタパルトからファースト・コンタクトの部分へと至る”宇宙編”を繰り出して、人類の弱い部分と強い部分を描き込んでいったら、クラークだってヴァーリィだって驚くスケールの大きなSF超大作になったった気がしないでもない。

 とりわけ人類が持つ宇宙との非親和性への指摘は、重く痛く苦しいテーマとして人に強い衝撃を与える。つきつめれば人類の存在意義にも迫る思弁小説になったかもしれないが、割にサラリと流され且つ解決への道までもが一気に示されてしまう展開に、どこか肩すかしを食らったような気がしてならない。もっともそういった部分への注意を促しつつも、主な読者になるだろう10代の少年少女が読んだ時、頭を決してひねらないよう楽しい展開の中でちらりと示唆するに止めた抑制ぶりを、むしろ買うべきなのだろう。

 ただやはり、人間の「意識」がどこまで宇宙に通用するのかを徹底的に突き詰め思索し弁証して欲しいという気持ちも一方にはある。本当に人は宇宙に出ていけないものなのか。現実の、人が巷にあふれかえった世界に住む物には想像の及ぶ話ではない。ないけれどもだからと言って人が宇宙(そら)を探り宇宙(うみ)を渡る日をあきらめるとは思わない。オーバーロードにもスターグライダーにも頼らない別の方法を、それこそ持ち前の想像力と科学の力によって人類の前に提示してくれる、そんな日を今は求めて止まない。


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