フェアリー・テール


 お化けの話に「怪談」というタイトルをつけたり、推理小説に「ミステリーズ」なんてつけたケースは過去にも聞くが、それにしても「フェアリー・テール」(妖精譚)とは。はじめてタイトルを聞く人は、なんという自信だろうと、驚きを通り越して呆然としてしまうだろう。だがしかし、その自信が事実によって裏打ちされていることに気がついた瞬間、呆然としていた気持ちは、そのまま掛け値無しの賞賛へと変わる。

 故郷の田舎町へとカリフォルニアから引っ越してきた作家と元女優の妻、そして娘と双子の息子たちが経験した夏から秋にかけての驚くべき出来事の数々が綴られた、レイモンド・E・フォーストの「フェアリー・テール」(ハヤカワ文庫FT、猪俣美江子訳、上660円、下620円)は、いささかの揶揄も冷やかしも交えずに、まさしく1編の優れた「フェアリー・テール」だったと言い切ることが出来る。

 家の裏にある鬱蒼と茂った森。河にかかった古い橋の下に「何者」かが潜んでいることに子供たちは気がつくが、それが「何者」なのか解らない。また、森のなかで「何者」かに襲われる作家の娘も、「何者」に襲われたのか解らないし、襲われた事実すらやがて忘れてしまう。

 しかし一家に忍び寄る影は、次第にその姿を露にしていく。鹿のような角のある兜をかぶり、甲冑姿をつけて馬で駆け回る「ワイルド・ハント」、白いドレスをまとった、しかしその下には鳥の鍵爪か山羊の蹄を持った「白衣の貴婦人」。飛び回るエルフや矢を放ち、レプラホーンやブラウニーが跳ね回る。古いケルトの伝説が、現代のアメリカの農場に蘇る。そして一家は、妖精と人間との間に結ばれた契約を、快く思わない者たちの悪しき陰謀に巻き込まれていく。

 アメリカ東部の農場に隠れていたものが、たとえばダン・シモンズの「真夜中の子供たち」のような妖怪であったり、H・P・ラヴクラフトの創造した「クトゥルー」の化け物だったりしたら、ストーリーはもっと陰惨なものとなっていただろう。騒々しい20世紀に生きる人々が作り出した「ホラー」は、暴力と血によって恐怖を強要する。しかしアイルランドから移り住んできたケルトの妖精たちは、邪悪な存在であってもある種の美意識、あるいはプライドを持って人間と接する。「白衣の貴婦人」は死に至らしめるかわりに最高の快楽を与えるし、「道化」にさらわれた子供も苛烈な運命を科すが、問答無用で八つ裂きにはしない。

 一定のルールに縛られたままでは「恐怖」を感じないと非難する人もいるだろうが、それはお角違いというもの。なにしろこの「フェアリー・テール」は「ホラー」でも「怪談」でもなく「妖精譚」なのだ。たっぷりの恐怖を振りまきながらも、それと同じくらいたっぷりの壮快感を、読む人に味合わせてくれる。

 小説のテクニックとして、章を細かく分けて、それぞれにちょっとしたエピソードを織りまぜたり、次へと続く引きを入れたりして、話をだんだんと盛り上げていく手法は、時にはあざとさも感じさせる。しかしそれは、決して小説としての魅力をそこなっておらず、むしろ作者の果てしないサービス精神を映しているようで快い。ジェットコースターに載せられたら、読者はもうなにもしなくてもいい。ただひたすら、ページを繰っていけばいい。かならずや最後に、幸せな気持ちになれるだろうから。

 アイルランドからの移民といっしょにアイルランドの妖精が移り住む。ならば日本人とともに日本の妖怪が移り住むこともあるのだろうか。ブラジルの開拓農園に出現する「泥田坊」、ハワイのサトウキビ畑を踏み荒らす「だいだらぼっち」、アメリカ西部の川にあらわれては尻子玉を抜いて回る「河童」。エクソシストもゴーストバスターズも、きっとお手上げに違いない。奴らにかなうのは、そう「ゲゲゲの鬼太郎」や「安倍晴明」くらいだろうね。

 やがて宇宙へ、人々が移り住むようになる遠い未来、妖精たちや妖怪たちも彼らといっしょに移り住む。宇宙の「ケルトファンタジー」、宇宙の「クトゥルー」、宇宙の「怪談」なんてものを、是非とも読んでみたい。


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