エル・ネグロと僕 剥製にされたある男の物語

 一時、話題になったイベントに、人間の死体をプラスチックみたいな合成樹脂で固めてしまった標本を、並べて見せる展覧会がある。

 内蔵がそのまま見える展示物もあれば、神経だけが固められた展示物もあり、人体が輪切りになって、内臓や脳の様子がくっきりと見えるようになった展示物もあったりと、文字通りの人間大博覧会といった様相を呈していた。

 かといって、ホルマリン漬けの標本が並んでいるようなグロテスクさは皆無。プラスチックによって造形された模型に近く、それらがややリアルに彩色され、並べられているだけの展覧会と、事情を知らない人が見たら、そう思っただろう。

 だからといって、それらは紛う事なき人間の死体だ。かつて生き、誰かと話し、家族もいたかもしれい人間たちが、今はただの物体となって置かれている。そう考えると、見ている人の心にはやはり、不安定な気分がわき起こる。

 いくらそれらが、生前に示された献体の意思によって作られた物であっても、また、医学的に意味のある展示だからといっても、やっぱり死体は死体。模型で代替して見せても、なんの問題もなかったりする物を、敢えて人間で行っているところに、倫理とか、真理といったものへの挑戦めいた感覚が引き起こされる。

 現状、そうした展示物に対して、倫理的な面からの意見はあっても、差し止めるような動きは起こっていない。生前の了解といったものが、大きく物を言っているのだろう。あるいは死体であっても、あくまで人間の物として展示されており、その尊厳までをも踏みにじってはいない、といった理由もあるだろう。

 スペインの博物館に70年近く飾ってあった、エル・ネグロと呼ばれたアフリカ人の剥製の場合は違った。国連のアナン事務総長が非難の声明を出して撤去を求めた結果、2000年になる前に撤去され、アフリカへと返され、埋葬された。

 生前に同意があった訳ではなく、死んで埋められたところを掘り起こされ、半ば見せ物として剥製にされ、欧州へと持ってこられたエル・ネグロ。その経緯は、プラスティック漬けにされた死体の標本とは、まるっきり立ち位置が違っている。

 同じ死体に過ぎないというなら、なるほどそうかもしれない。けれども、問題はエル・ネグロの場合は人間の死体といった意識ではなく、人間とは違った生き物の標本といった雰囲気で、欧州に持ち込まれてしまったことにある。

 1800年代といえば、それなりに文明も科学も発達していた。それでもアフリカの地は暗黒大陸と呼ばれ、そこに暮らしている人も、人とは思われなかった節がある。ダーウィンが「種の起源」を発表するのは1858年と、1800年代も半ばを過ぎてのこと。そこから広く知識として行きわたり、宗教とも折り合いを付け、観念として広まるまでには、あと少しの時間が必要だった。

 そんな時代、欧州の人間とは見た目も生活の様子も違っていたアフリカの原住民たちを、人間とは思おうとしない、あるいは思いたくない人間が、大勢いたのかもしれないという想像できる。そうした欧州の人間たちに、人間のようだが、そうではないかもしれない生き物の標本として、エル・ネグロは持ってこられて、見せられた。

 大きく譲って、当時はそういった雰囲気だったのだから、展示されるまでは致し方ないといった釈明も可能だろう。問題が根深いのは、20世紀に入って、それも後半に至ってもなお、エル・ネグロはアフリカ原住民の標本として飾られ続けたことにある。

 いかにも、といった雰囲気の衣装と装飾で衆目にさらされ、そういう人間がアフリカにいたのだといった偏見を植え付け、あるいは偏見を納得させる道具として働いた。これにはアフリカの人間たちが怒るのも無理がない。だから撤去された。

 それでもなお、消えずに漂っていた偏見を、若き日に博物館でエル・ネグロを見て衝撃を受けたオランダ人青年が、開発援助の仕事で世界を回るかたわら、誰が何のためにエル・ネグロを剥製にして、欧州に連れてきたのかを追い求めたのが、フランク・ヴェスターマンによる「エル・ネグロと僕」(大月書店、下村由一訳、2400円)という本だ。

 開発援助という仕事をしている過程でフランクは、今なお上から目線でアフリカなど発展途上の国々を見る態度が、どうにも妙だと感づいた。かつてアフリカが知られていなかった時代に、あくまで標本としてエル・ネグロを捉えていた時よりも、同じ人間として認めながら、明らかに区別を行っているだけに今の方が、明らかに罪深い。

 それなら、どうにかすれば意識は消せるのかというと、そうした意識を消すような行為そのものが、厳然として存在する格差から目をそらそうとするものだという反発を喰らい、迷いにさまよっている。そうした逡巡を、彼がエル・ネグロのルーツを求めて旅した冒険で得た思考をふまえつつ味わい、自分ならどうやって世界を感じ、そこに生きる人々の尊厳を意識するのかを、考えてみるのが良いだろう。

 エル・ネグロをめぐる心と体の旅を通して、人間という存在の本質に迫り、そして今なの人間を分け隔てようとしている心理がどこにあるのかを、考える。1冊の本を読み通すことによって、即物的な人体標本の博覧会を見なくとも、あるいは見て得た知識をふまえた上で、より深い思索が得られることだろう。


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