厭犬伝

 「ベストセラー本ゲーム化会議」で古今の名著からマニュアル本から教養本まであらゆる本をゲーム化してみせようと企んだ面々のひとり、米光一成が「ゲーム化熱烈希望!」と帯に推薦の言葉を寄せているのもよく分かる。2007年開催の第19回日本ファンタジーノベル大賞を獲得した弘也英明の「厭犬伝」(新潮社、1200円)は、まさしくゲームと裏表の関係にある小説だ。

 ただし、小説として書かれた物語からエッセンスを抜き出し、構成を吟味し、適合するゲームのジャンルを選び、その上でゲーム化を思案する、従来の“ゲーム化”の楽しみでは咀嚼が難しい。なぜならこの物語の着想にゲームがあるからだ。ゲームから着想されて物語として適合するように改変された、例えるなら「ベストセラーゲーム書籍化」のフォームに乗せられ、書かれた物語であってそれを再度、ゲーム化するという捻れがそこに生じるからだ。

 日本の中世に近い雰囲気を持った世界が舞台の物語。そこでは木彫りの人形「仏」を操り、戦争には兵隊の代わりに出陣させ、神事めいたことにも何かの依代(よりしろ)あるいは贄(にえ)のように使う風習が存在していた。ある意味では国家機密にも匹敵する武器であり、別の意味では神の代わりとして畏れられ、敬われる貴重な存在である「仏」。それが時代も変わり平穏が続いたからなのか、国家による統治が緩んだからなのか、賭場ともゲームセンターとも見てとれそうな場所で、闘いのコマとして使われるようになっていた。

 街にある闘いの舞台となる「合仏堂」では、町民から浮浪者然とした風体の怪しい男たちまでが集いバトルを繰り広げている。金を払い、「仏」に呑ませる黄緑色に光る玉石をもらう場面は、ゲームセンターで紙幣を両替して払い出されたコインを積み上げるような雰囲気がある。田舎の集会場みたいなところにも「合仏堂」はあって、寂れた村の住人たちが合(あわせ)を娯楽代わりに楽しんでいる。

 そうした「仏」を動かす時に必要な、思念を受信して増幅して伝える依姫もとりたてて特別な存在ではなくなっている様子で、合(あわせ)が行われる場所ならどこにでもいたりする。最新のコンピュータが最高の場所にあったのも一時まで。その後は一般化し普遍化して挙げ句に陳腐化していったように、仏も依姫もありふれてしまったというべきなのか。これではまるで90年代も半ばに入って、技術的には限界に来て文化的には廃れかかった、ゲームセンターと格闘ゲームのようではないか。

そう。まさしく場末のゲームセンター感を出そうと弘也英明は「厭犬伝」を書くにあたって構想したと話している。当時のゲームセンターにあった、妙に殺伐として倦怠感の漂う雰囲気を描き出したい。そうした着想からCGの格闘キャラクターならぬ仏(ほとけ)なる立体の闘士、格闘ゲームならぬ合(あわせ)なる競技を創出し、そしてそれが成り立つ世界を作ろうとはしてみたのが「厭犬伝」だった、といったところになるのだろう。

 書きたいことがあれば、あとは走るだけ。だから整合性という部分できしみも出てしまう。一族の命運を左右するくらいに貴重過ぎる「仏」を作らせたら、それがあっさり摘発され、奪われるってしまった皇木族なる一族の危機管理意識の希薄さ。そうやって奪われた恨みを即座に晴らす訳でもなく、かといって盗んだ厭太郎を公衆の面前で死に至らしめようとする訳でもなく、仏を掘った犬暁という仏師の娘を動かし、犬暁の仇として厭太郎に合(あわせ)の勝負を挑ませる態度も、どこか錯綜気味で説得力にかける。恨み骨髄の割には回りくどいが、その回りくどさがあって初めて厭太郎と、犬千代なる美少女とのゲームが成立する。仕方がないというべきか。

 最後には命をかけて合(あわせ)に挑む厭太郎と犬千代の戦いぶりは、60分の1のフレームまで見極め、スティックとボタンを操作しコマンドを打ち込んで、紙一重の勝利を目指す格闘ゲームのゲーマーたちにも並ぶ切迫感があり、スピード感があって引き込まれる。ましてや片方の命がかかった勝負。その先に待ち受けるのがハッピーなのか、バッドなのかが見えないだけど手に汗を握らされる。だからこそあのエンディングで良かったのか? という気も湧いてでる。カタルシス、というものの大切さを思い知らされる。

 根にゲームがあることを知らずに読めば、今風の価値観や娯楽を過去に映して巧みに溶け込ませたファンタジーと認め、楽しめるかもしれない。起伏もあり葛藤もあって懊悩もあり慟哭もある物語を紡ぐ力を持っていることだけは確実だろう。だからこそ気になる部分も多く出る。幼い頃に断種の意味もあって虚勢され、女性のような容貌のまま成長した厭太郎が、そのことを原因に何か大きな事態に巻き込まれるでもなく、犬千代との間に何かが通う訳でもない。やや勿体ない。

 物語自体には最後に決着が計られ、登場人物たちのその後も語られてしまうため、そのままの延長というのは難しいが、せっかく紡ぎ出された「仏」に「合」の着想を、埋もれさせては原点にあるゲームにも申し訳がない。ここは新たなキャラクター、新たな仏に新たな舞台を与えて、「厭犬伝」とはまた違ったバトルの凄まじさなり、関わることの空しさを描いていって欲しいもの。それがゲームに対する礼であり、読者に対する義でもある。


積ん読パラダイスへ戻る