エンデュミオン エンデュミオン

 どうして宗教が生まれたのか。不勉強ゆえに不明ながら、直観として抱くのは、「死」という避けることのできない運命への恐怖を、いかに克服するかという気持ちがあったからでなないだろうか。キリスト教なら天国に行くなり地獄に落ちるといった死後の世界を教えに入れて、人間から「死」の恐怖をとりのぞこうとするし、東洋には輪廻転生の思想があって、「死」は新たなる「生」への入り口と説いて安心感を与えてくれる。

 もちろん宗教には、天災などによって生活を脅かされた人間が、そこに超越的な存在を見出して「神」と讃えて崇めようとした意識もあるだろう。空に輝く巨大な月の満ち欠けが人間に与える心理的・肉体的な異変や、天空を彩る星々の規則正しい動きも含めて、人間の力が及ばない事態から生まれる恐怖を、理性でもって押さえようとする心理上の行為が、「神」を作り「神話」を形成して人間に安らぎを与えようとしたのだと、そう言えるのかもしれない。

 歴史が流れ、人間は、その発達した知能で自ら拠り所とするために作った「神」を、「神話」をどんどんと殺していった。科学によって自然の動きを解明し、理論によってすべての現象を語れるようにしてしまった。恐ろしくも神秘出来だった部屋が明るく照らし出されてしまった結果、単なる狭い監獄だっと気づいた時に、人間にはいったい何が起こるのか。

 明かりを消して現存する「神」に、「神話」にすがるのか、それとも明るい部屋を飾る何かを作ろうとするのか、あるいは更なる「神」を、「神話」を求め宇宙へと旅立つのか。「神は死んだ」との哲学者の言葉がますます実体を持つ一方で、個人が、集団がそれぞれの「神」を作り出してその庇護のもとに引きこもろうとしている今だからこそ、「神」と「神話」の意味について問おうとした渾身の書、平谷美樹の「エンデュミオン エンデュミオン」(角川春樹事務所、1390円)が生まれたのかもしれない。

 そんな時代、科学が精神をも解明しようとしている時代に何故か、前近代的な怪異が月でも地球の各地でも起こっていた。月にはセレネと呼ばれるようになった少女の影が現れ、科学の申し子である月エンデュミオン基地の滞在者を恐慌に陥れていた。地球ではエンデュミオンなる存在を探しては抹殺する人々が2000年に入る直前からたびたび現れては、何の関係もない少年を殺す事件が多発していた。

 そして今、2000年を20年ほど過ぎた地球でヤンという名の少年の回りで不思議な事態が起こっていた。アメリカの北部にあるエイプルヒルズの牧場に育ったヤンは、夢でセレネという名の少女から「月へは来ないで」と言われ、父やの死を予言してしまい、まったくの無関係な人間に襲われ命を奪われようとしていた。一方ではフロリダに住んでいる元宇宙飛行士たちが、「エンデュミオン」なる存在を月へと送り込まなくてはならないという意志にとりつかれ、名誉も地位もなげうって、宇宙船を奪い月に向かう計画をめぐらしていた。

 どうしてヤンは月へ行ってはいけないのか。そして月に行かなくてはならないのか。その理由が明らかになっていく過程で、「神」や「神話」への信心が背心の安寧をもたらした一方で、人間の精神を重力へと縛り付けらていたことがつまびらかにされ、そんな人間の精神をより高見へ、より強靭なものへと押し上げるために必要な、「神」と「神話」の抹殺という行為が描かれる。

 月の女神セレネに捉えられ、眠らされた羊飼いの少年エンデュミオンの覚醒が、神話世界の崩壊をもたらすというギリシア神話から原典を取り、行き詰まった社会を突き破る象徴となるのが、ヤンに至るまで度々現れては消されていった「エンデュミオン」だった。

 「エンデュミオン」とその暗殺者を決定するプロセスに、科学的な説明はついていないが、理性と本能の折り合いを付けるために神話を作り出した人間の想念、あるいは進歩のために神を殺さなくてはならないと心の奥底で理解するに至った人間の想念の濃い場所、吹き溜まった場所に発生した、「集合的無意識」の産物だと理解することで納得はできる。

 ただ「神」や「神話」を殺して人間がひとり立ちしたところで、超越的な存在への信心は完全に捨てきれるものなのか。科学がいくら進んでも、人間が生命である以上、決して逃れられない「死」という運命への恐怖を克服するためには、何からの「救い」が必要となる。

 物語の終わりに示される、ネパールの宗教に染まった元宇宙飛行士たちが輪廻転生を信じて行動するエピソードは、「神」や「神話」を殺して月への畏怖を克服し、さらなる発展へと足を進めた人間のどこかに、未だ「神」や「神話」を信じたい気持ちが残っていたことの現れなのだろうか。あるいは輪廻転生の思想を、超越的な存在への単なる依存心ではなく、人間が自分自身を確立して何者にも頼ることなく生を真っ当していくための知恵なのだと見れば、「神」や「神話」を殺して、人間の存在を屹立させようとしているのだと言えないこともない。

 地方の文学賞を授賞し、審査員だった故・光瀬龍を師と仰いで来た著者ならではの、宗教的な思想を折り込みつつ、発達する人間の精神が次に向かう場所を示した思弁的かつ科学的な物語に仕上がっていて、読み終えた後もそのテーマの深淵さにいろいろと考えさせられる。

 巻末の、「師匠。光瀬先生。ごめんなさい。ぼくは間に合わなかった」という著者の言葉に滲む自責と慟哭の念は胸を打つが、死からさほど間をおかずして、その魂を受け継ぐ作品でデビューした著者の存在は、あるいは輪廻転生の1つの形なのかもしれない。神格化され神棚に納められたまま殺されることなく、甦った光瀬の魂が紡ぐ新たな物語の数々が、安きに流れず楽に溺れることなしに、人間存在の意義を問い続けるものであって欲しいと切に願う。


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