[エンバーミング]

 道行く人に「エンバーミング」という言葉を知っているかと訪ねても、たぶん10人に8、9人が「知らない」と答えるだろう。しかしことミステリファンの集まりに限って言えば、10人に8、9人が「知っている」と答えるに違いない。というのもすでに、山口雅也が長編第1作「生ける屍の死」(創元推理文庫、951円)に「エンバーミング」という言葉、「エンバーマー」という職業を登場させて、作品を構成する重要な要素として用いるからだ。

 「エンバーミングとは死体の防腐処理やいわゆる死化粧をする技術で、アメリカでは免許のいる立派な仕事」(「生ける屍の死」文庫版32ページ)とあるように、アメリカでは生活の中に、といっても生活の最後を飾る葬儀という部分にだが、この「エンバーミング」という仕事がしっかりととけ込んでいるらしい。大学には「エンバーミング」を教え「エンバーミング」の資格をとらせる講座が設けられており、「生ける屍の死」では、主人公のグリン自身もエンバーミングを学ぶために大学へと通った。

 あるいは山口雅也が「捏造」した資格だと、「エンバーマー」のことを考えていた人もいたかもしれないが、雨宮早希がタイトルもそのままの「EM[エンバーミング]」(幻冬舎ノベルズ、781円)でデビューを飾り、その作中に日本を舞台に活躍する女性エンバーマーを登場させたことで、少しはこの「エンバーミング」という言葉、「エンバーマー」という職業に対する理解度が、日本でも高まっていくのではないだろうか。

 主人公の村上美弥子は、父親が経営する葬儀社の関連施設として設立された「村上EMセンター」に所属するエンバーマー。ほかにも日本には、それぞれ別の葬儀社が出資して設立した8カ所のエンバーミング・センターがあるが、所属しているエンバーマーはたいていがエンバーミングの発達した米国やカナダから招かれた外国人で、日本人のエンバーマーは美弥子ひとりという状況だ。

 美弥子がエンバーマーを志したのは、留学先の米国でつき合っていたボーイフレンドが事故で死亡した時に、エンバーマーによってエンバーミングが施されて、美しかった生前の表情を取り戻し、その顔に別れを告げられたことが、大きな動機となっている。それと実家が葬儀社を経営していたことも、葬儀と密接な関係を持つエンバーマーへの道を選ばせた理由となっていて、父親の援助で学校を卒業した後、米国の葬儀社に入って修行し、東洋人のエンバーマーとして高い評価を獲得していたにも関わらず、日本に戻って父親の葬儀社に入った。

 1日に何体も処置するなかで、美弥子は常に死者に敬意を払うことを怠らない。司法解剖で喉元から恥骨までをばっさりと切り開かれ、内蔵をすべて摘出・見聞された後に、適当に放り込まれたて回されて来る遺体でも、すべてを元通りに戻し、外からは解らないように丁寧に縫い直して、遺族のもとへと送り出す。いきおい神経や血管の1本1本、筋肉の1束1束、そしてすべての臓器の特徴にいたるまで、人間の体に関する知識は豊富にならざるを得ず、そんな彼女の見識をあてにして、警察から不振な死をとげた死体が回されてくることもあった。

 その日、美弥子が体面したのは17歳の美しい少年だった。父親に代議士、祖父に製薬会社の会長を持つ裕福な家庭に生まれた少年だったが、金満な家庭によくある家族の不和によって、幼いころから精神にさまざまな傷を負っていた。傷はやがて人格を破壊し、少年は肉体の10数カ所をナイフで切り裂いて自殺する。むごたらし死をとげた遺体を繕った美弥子だったが、少年を持ち込んだ刑事が、少年の死に事件性を感じていろいろと調べていったことが災いしたのか、身のまわりに次々と不審事が起こり始める。

 同じように全身をナイフ切り裂かれて東京湾に沈められた女性の遺体が発見され、少年の父親と義母が惨殺されて、事件はいよいよクライマックスへと突き進む。幼い頃から虐待され続けて分裂していった少年の自我に接し、少年と親好のあった少女の豹変する様を見て、美弥子は人の心の複雑さを知る。死体から多くの言葉を聞くことができるエンバーマーだが、心の叫びだけは決して聞き取ることができないのだと、複雑な人の心が起こした事件を通じて、美弥子は知ることになったのだろうか。

 人を犯罪に至らしめる動機となった人の心の問題が、あまりにも偶然に重なり合う様には、正直いって眉を顰(ひそ)めざるを得なかったし、主人公のエンバーマーという仕事が、あくまでも事件との接点に過ぎず、法医学者を探偵に据えて、その英知で事件を解決させるミステリのようには、主人公のエンバーマーの活躍を楽しむことができなかったのが個人的には残念だ。

 しかし突出した能力を持った主人公が、探偵となって八面六臂の大活躍をして、たちどころに事件を解決してしまうなどということが、現実世界でそうそう起こり得ないのもまた事実。むしろ彼女を事件の入り口として、人の死がおりなす様々な騒動を活写する小説へと進んでいく方が、かえってエンバーミングという仕事の大切さ、大変さ、不思議さを楽しむことができるような気がする。作者には、殺す者の人の生への冒涜の意識と、死体を扱う者の人の死への尊厳の意識との対比を、今度は突飛な設定を抜きにして、是非とも語って(美弥子に語らせて)頂きたい。


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