永遠のフローズンチョコレート

 倫理的には許されない。法律的にも認められない。けれどもそうなれば、この当たり前に過ぎて行く日常に裂け目を生じさせ、見えない非日常を伺わせてくれるかもしれない物語というものがある。扇智史の「永遠のフローズンチョコレート」(ファミ通文庫、600円)がそれだ。

 冒頭から繰り広げられるのは、目を覆いたくなるような陰惨な光景。「本日の武器はハンマーだ。白髪交じりの男はうつ伏せに倒れて、余話弱しうめき声を発している。陥没した苦闘宇から流れる血が、元々汚らしかった髪を別の色に汚染していく」(7ページ)。

 やったのは女子高生。彼女は人を真正面から真面目にぶち殺しては、それを特段に悔やみもしないで歩み去る。そして同級生の男子にそのことを話して平気な顔でいる。同級生の男の子もそれを虚言ではなく事実として認識している。

 「殴殺は二回目だけど、どうにも加減がわからなくていけない」「殺すならやっぱり刃物だ」(8ページ)。少女は過去にも行きずりの殺人を犯している。何人も殺している。けれどもどうして彼女が人を殺すのか。物語の中に彼女の”心の闇”なんてものは描かれない。心理的なプロセスも分析されない。

 殺したいから殺す? そんな意志すらも感じさせない自動的な殺人鬼。知らん顔をして見過ごすには不穏な、けれども引き寄せて同調するにもつかみ所のない存在に誰もが戸惑い、持てあます。

 そんな彼女が道で見かけて、なぜか心から殺したいと思い、殺そうとした女の子との出会いが、ダークにファンタジックでもあり、またサイコにステリアスなエンターテインメント的フックとなって、物語に起伏を与える。存在してはいけない非日常的光景に、何かの認証を与える装置を見せてくれるかもしれないと、行き場を失った気持ちに道しるべを与える。

 けれども、殺人鬼の少女が出会った不思議な女の子ですら、スパイス以上のものにはなり得ない。物語の本質的な部分にある、見かけは平凡で、育ちも若干の苦労こそあってもとりたてて悲惨ではない少女が、連続殺人鬼となっては人殺しを繰り返しつつ、同級生の男子との間でチョコレートを渡し合ったりする、淡々として平凡な青春ストーリーが繰り広げられる。

 読んで人は、とりわけ主要な読者と想定されているティーンたちは、この物語から何を思えば良いのだろう。常識では理解できない虚無的で退廃的な心理というものが存在するという事実か。ネガティブさにまみれた感情なり、あるいはネガティブさすら存在しない、無感動を原因とした殺人行為が起こり得る現実の難しさか。

 現実の世界なら、少女は罪に対する罰を受ける。非現実な心理世界での葛藤が顕在化したファンタジックな設定ならば別だが、「永遠のフローズンチョコレート」が舞台にしているのは、逃げ場のない現実の世界。そんな世界で、少女は人を殺しまくって一切の罰を受けない。殺された人への救いもない。倫理の底が抜けている。というよりそもそも倫理がない。

 行きずりの無関係な人を殺める行為も、関わりの深い誰かを愛する行為も、等しく価値に変わりがないのだと、捉え感じる世代がいるのかもしれない。そんな示唆を、物語に繰り広げられるチュエーションは与えようとしているのかもしれない。今のこの、倫理の底が割れてしまった日本の実状を、現しているのだと言えば言える。

 しかし、だからこそそうした状況を糾し、前向きに生きる力というものを物語には求めたいというのが人情だ。歪み融けていく現実を引き戻し、固め直す力を物語には望みたい。そんな考えに立つならば、虚無と退廃しか与え得ない「永遠のフローズンチョコレート」の存在は、忌み嫌われるのが対処として真っ当だろう。ティーンに読ませるべき1冊ではなく、ティーンから永遠に遠ざけられるべき1冊だ。

 それとももはや手遅れなのだろうか。融けて行く現実に誰も逆らえないのだろうか。諦めるしかない状況の中、流されるしかない気持ちに逆らい今に留まろうとする足掻き。そんな歪んだポジティブさを、ティーンは主人公の少女の行為に見るしかないのかもしれない。

 だとすれば、問われるべきは、こんな物語に暗い希望を見る子供たちの空虚さではない。そんな時代を作り上げた大人たちの傲慢さに下された罰。それが振り下ろされるハンマーなのだとしたら、大人たちには少女の眼鏡越しの虚ろな視線から目を逸らさず、甘んじて脳天に鉄塊を受け止め、汚らしい頭を血の色に染め上げよう。


積ん読パラダイスへ戻る