江口寿史の犬の日記、くさいはなし、その他の短編


 伝説が始まってからもうそんなに経つのかと、「江口寿史の犬の日記、くさいはなし、その他の短編」(KKベストセラーズ、895円)の巻末に、著者の江口自身が寄せた自作解説「来るべき2000年代とワシ」を読み強く思う。

 「ストップ!!ひばりくん!」の「週刊少年ジャンプ」83年11月28日号掲載分。血の涙を流した男の大ゴマに、驚く耕作とひばりに「つづく」の文字が重なった引き。だが、絶頂の人気を得てアニメ化すら成った作品は、その号を境に雑誌から忽然と姿を消した。そして15年以上も経った今に至るまで、復活の兆しすら見せていない。江口寿史の伝説はこうして始まった。

 連載をすれば落とす。落とさないまでも絵が描けなくて必至で繕う。時には繕うことすらせず荒れに任せた筆を取る。1度や2度ではきかないその「落としぶり」「逃げぶり」は、他の追随を許さないまでに一種の”藝”へと高められている。

 もはや誰も連載が大団円を迎えて完結する、などと言う真っ当な漫画が描かれる事など期待していない。むしろ連載がいつ落ちるか、或いはいつ江口が逃げ出すかを期待する人の方がはるかに多い。漫画を描かない事が人気の漫画家。漫画を描いても途中で逃げ出す事が望まれる漫画家。絶対的な矛盾を超越的に成し得た江口は、生きながらにして伝説となった。

 過去に幾たびか編まれた”お蔵出し”のような作品集にも、終ぞ収められる事のなかった地獄のような作品ばかりを、半年後に迫った1999年7の月を前に整理しておこうととでも思ったのか、集めまとめた作品集がこの「江口寿史の犬の日記、くさいはなし、その他の短編」だ。収められた作品はどれも、体内に澱のように溜まった悪しき宿便がひり出されたかの如く、読む人に悪夢とも二日酔いとも言える激しい衝撃を与えずにおかない。

 数ある”江口寿史の伝説”でも、今作品集が初の収録となる「ストップ!ひばりくん!!」の幻の最終回に勝るとも劣らない伝説として、噂には聞いていた「WEEKLY漫画アクション」89年3月28日号に掲載された「白・赤・黒」を拝めるのも、まさに世紀末ならではの椿事と言えるろう。「白・赤・黒」がどれだけ凄い漫画かは、単行本を実際に読んで戴けば直ちに解る。これを誌面で見た人が抱いた衝撃を、思うだに神経が高ぶり胸が痛くなる。

 もっとも今こうして伝説の数々を耳にした身にとって、「白・赤・黒」は実験的であっても衝撃的とは思えなかったりする。なるほど巻末のあとがきでも江口寿史が書いているように、ギャグでは江口の大先輩に当たる赤塚不二夫は、キャラクターの顔を大きくしてページいっぱいに描いたり、消えたと言ってページを真っ白にしたりといった、実験(というなの「逃避」)の限りを尽くした漫画を過去に描いている。赤塚に限らず今も漫画の手法を逆手にとり、実験の名を借り場を取り繕う漫画は多く描かれている。むしろ最後にオチがつく江口の「白・赤・黒」など、傑作ギャグ漫画の部類に入れて良い。

 同じく収録されている「セクシーくノ一」の第2回のマジックで描き殴ったような下手さ、そしてその「セクシーくノ一」が第3回以降掲載されていないことも、描かない事がすなわち”藝”だと認識した人々にとって、笑い許せても怒りなど湧くはずがない。もはや江口にとって、原稿を落とすことも執筆から逃げることも、伝説を衰えさせる方向ではなく、むしろ高める方向へと作用する。落とすこと、逃げることを描く事と等価値にまで高めた江口はもはや漫画家の枠組みに収まらない”パフォーマー”であり、第一人者としてその行為を賞賛される”アーティスト”なのだと、言って間違いではないのかもしれない。

 とは言え、江口自身が開き直っているかというと決してそうではなく、むしろその”伝説ぶり”を気にしているところが奥ゆかしく面白い。それは例えば「白・赤・黒」を「いちばんヒドイ」と認識している点に現れている。ギリギリまで追い込まれた作家が発揮する瞬発力が伝説を作るのだとすると、江口は「白・赤・黒」では自分は赤塚のようにはジャンプできていないと自戒している。

 余裕をもったジャンプ力で、あれほどまでに衝撃的な作品を作り出せるのならば、瀬戸際まで追いつめた際に発揮するジャンプ力たるや以下ばかりかと、思って何の躊躇いがあろう。だから言おう世に五万と存在する編集者たちよ、直ちに江口に仕事を持ち込み、追い込んで、飛ばせ。その飛びっぷりこそが、真に1999年7の月に訪れるであろう世界の滅亡すら吹き飛ばし、2000年代はおろか2100年代も3000年代も席巻する”伝説”となるはずだから。


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