DZ
ディーズィー

 偶然を信じない。というより、信じられないからこそ偶然と呼ばれるのであって、だからこそ偶然は予想のつかない未来へと人をいざない、闇の中を手探りで進む恐怖と興奮にをもたらしてくれる。予定調和へと陥らないドラマを感じさせてくれる。

 恐怖と偶然をもたらしてくれる要素である関係上、偶然を入れ込んだ小説は多い。もちろん完成品として世に問われた作品である以上、小説の場合には必ずや決まった結末が用意されており、すべてのドラマがそこに向かって収斂していくのは避けられない。これが前提としてある以上、小説の中でどんな偶然が出てきたところで、それは結論への必然でしかない。

 だが、たとえ必然的に入れ込まれた偶然であっても、そうとは思わせず巧みに人の驚きと驚嘆を煽りつつ、実は決定しているにも関わらず、予想だにしなかった結論へと読者と導いていってくれる小説もある。その場合、提示される偶然を、結論に導くための必然と感じさせてはやはりまずい。読み通す楽しみが偶然の必然性を確認するための単なる作業と堕し、挙げ句に「ご都合主義だな」と困惑させてしまっては失敗だろう。

 横溝正史賞正賞を受賞した「DZ(ディーズィー)」(小笠原慧、角川書店、1500円)の読後に感じたことは、そんな困惑だった。「DZ=二卵性双生児」というタイトル、「ヴェトナム難民船より救出された妊婦から生まれた二卵性双生児(DZ)の兄妹が背負う運命を、ハリウッド映画のような壮大なストーリーで描き上げたヒューマンストーリー」から想起される内容との差異にはひとまず目をつぶろう。気になったのは、とにかく必然的な偶然が多すぎる点だ。

 二卵性双生児の兄が主役らしい、とタイトルによって想起させられたにも関わらず、物語はありがちな離ればなれになった2人の成長と邂逅の物語にはなっていない。それより以前の、妊婦が救出された場面から話は一気に飛び、米国で老夫婦が殺害されて幼かった息子も行方不明になった事件が描かれ、日本で幼児ながらも天才的な能力を発揮した少女が、小学生になって突然自閉症のような精神の病を発して入院する経緯が描かれる。

 それからさらに時間を経て、米国にグエンという名の天才的な生物学者が現れ、画期的な論文を発表するようになり、日本に婚約者を残して同じ研究所に留学していた日本人の石橋を共同研究者に誘って、ある実験を始める。だが、グエンの研究に奇妙な部分があることに気づいた石橋は、それを上司に訴えようと考えたその晩、何ものかによって射殺されてしまう。一方で石橋の婚約者だった涼子は、医師になり主に染色体異常から肉体的、精神的に重度の障害を持つ人たちが入院している病院で働くことになり、そこで1人の少女と出逢う。

 グエンは何かに急かされるように研究を続け、涼子は少女を治療しようと懸命になってコミュニケーションを務める。遺伝子の異常がもたらす精神への影響が細心の研究成果をもって語られ、読む人間を知的興奮に誘ってくれる。やがてグエンの目的が明らかになり、袋小路に入りつつある人間にもたらされる光明、その代わりに犠牲になるものの大きさが明示されて、人間は進むべきなのか、このまま滅んでいくべきなのかが問い直される。

 そのテーマは面白い。己が命の意味に固執するグエンの、離ればなれになっていた肉親に情愛を抱くどころか、憎むにしても嫌悪するにしても生じるだろう感情の機微の微塵もなしに、己が生存本能に衝き動かされて次々と事件を犯していく様が、恐ろしくもあり目新しくもある。聞けばもともとは「ホモ・スーペレンス」というタイトルだったそうで、これなら内容ともピタリ符合する。このまま使われていたのだったら、「DZ(二卵性双生児)」という、何やら神秘的でドラマチックな意味を思い浮かばせるタイトルに期待して、挙げ句にあまりにも独善的で即物的な「二卵性双生児」の扱いに、1人の二卵性双生児として憤らなくても良かったのだが。名は体を表し過ぎるのも考えもの、だったのだろう。タイトルの変更もやむなしといった所か。

 それより気になったのは、あまりに必然的過ぎる偶然の扱いだ。最後の場面で使われることになるヘリポートが作られた経緯、あるいは舞台となる田舎の療養所に不自然なまでに高度な医療設備が整えられている経緯、長年探していた人を見つけるきっかけ、そこにいた涼子との因縁、そして最後に明示される新たなる生命の胎動も、この結論へと物語を収斂させていくために必然的な偶然の数々に思えてしまう。そこには、どこに連れていかれるのか分からない偶然の効能が感じられない。

 例えば、グエンの正体を最初から知らしめた上で、グエンにとって自分の存在意義とは、そして人間とは何かをグエン自身にも、また読む側にも考えさせるような展開になっていたら、反感であれ共感であれ、気持ちを入れ込んで物語に没入できたような気がする。次々と起こる偶然も、生きることに懸命な人間が意思の力で呼び込んだものと、納得できたかもしれない。それとも感情などとは無縁に、己が生存本能に従って動くだけで、周囲もそれに引きずられ、いかなる偶然も呼び込むのが「ホモ・スーペレンス」なのだろうか。だとしたらやはり、タイトルは最初のままだった方が良かったかもしれない。


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