ドリーミング・オブ・ホーム&マザー

 悲しんでいる人は多いだろう。悔しがって人もいるだろう。ハードボイルド作品で名を馳せ、「裸者と裸者」から「愚者と愚者」と続く作品群では、内戦下にある近未来の日本をサバイブする孤児たちの苛烈な生き様を描いて喝采を浴びた。

 そして、いよいよこれからという2007年10月に急逝。評論家の池上冬樹が「応化戦争記」と呼ぶシリーズで、完結編となるはずだった「覇者と覇者」を読むことは、もはや誰にも永遠にかなわなくなった。

 ほかの物故作家たちと同様に、あとは遺された傑作群をひたすらに読み込んでいくしかもう、打海文三という21世紀の文豪を味わう術はない。そう悲嘆にくれていたファンに、彼岸から素晴らしい贈り物が届けられた。それも過去に類のない物語が。

 幼い頃に、1匹の子犬を助けようとして果たせなかった田中聡という少年と、さとうゆうという少女がいた。連れ去られた保健所で少女が、担当してくれた女性に頼み込み、子犬を引き取ったものの時すでに遅く、弱った子犬は息を引き取り、看取ろうとした少女も、風邪をこじらせ入院する羽目となった。

 やがて時を経て、田中聡は就職から転職を果たし、編集者となった。さとうゆうは学、生の頃から何でもこなすライターとして活躍していた。近い業界に揃って足を踏み入れたこともあって、2人は東京の街で再会を果たす。

 編集者になった田中聡は、憧れだった女性作家の小川満里花とのコンタクトに成功し、執筆こそかなわなかったものの、さとうゆうを連れてインタビューへと出向く。満里花がかつて田舎の保健所で、さとうゆうの必死の頼みを聞いてくれた女性だと分かって、親しさが増し、田中聡やさとうゆうが住んでいた街に近い海辺の別荘で、3人による宴が始まった。

 ところが。満里花の飼っていたイエケという名の大きな黒い犬が、突然さとうゆうに襲いかかり噛みついた。命すら奪おうとした。さとうゆうが満里花と親しくなりすぎたことに嫉妬したからなのか。理由は不明だったものの、動揺した満里花はイエケを処分することを決意する。そして幸せに見えた3人の関係に埋めがたい亀裂を入れる。

 それだけではなかった。処分したと満里花が言い、後になってもずっと言い張っていたイエケらしい黒い犬が、東京の街を跋扈し始め、日本の平穏までをも一変させてしまった。さとうゆうは田中聡と連れだって、イエケなのかを追って街を歩き回る。ミステリーのような展開の果て。2人は真実を掴む。

 子供時代からの幼なじみの男と女と、そんな男が憧れ女が好意を抱いた美しい女性作家の3人が織りなす男女の恋愛ストーリーに見えた物語が、かつてアジアで大流行したSARS(重症急性呼吸器症候群)に似た病の大流行で、世界中が慌てふためくパニック小説へと変化。混乱の中で悲劇へと至る触れ幅の大きさに、戸惑う読者も多そうだ。

 現実なのか、虚構なのかすら曖昧となっていき、イエケは幻の魔犬なのか、さとうゆうは未だ存命なのかといった懐疑が浮かんでビジョンを揺るがす。憧れだった満里花を背後から貫き、歓喜へといざなう田中聡の感嘆すら、夢の中へと飲み込まれ、混沌の中へと引きずり込まれる。

 政治は未来へのビジョンを何も示さず、経済は低迷から崩壊へと向かうばかりで将来に一切の期待を抱きづらい、この現実の世界に暮らす人間たちに常につきまとう、何がリアルで何が夢かを確信できない不安感が、物語から立ち上る。

 一切が虚無なのか。それは違う。現実の世界は確実にあって、それは破滅への道をひた走る。そんな世界にハードボイルドな物語で生き様を伝え、仮構の戦争の物語で生きる覚悟を伝えようとした打海文三の、意図せざるとはいえ最後となったメッセージが、「ドリーミング・オブ・ホーム&マザー」(光文社、1700円)という幻惑的な物語の裏側に刻まれている。残された者はただ感じ取り、受け止めて進むしかない。

 合掌。


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