同級生

 見渡すと女性ばかりで自分を除くと男性は1人が2人といったところ。ご老体な人も入ってきたけれど、あるいは「女学生」みたいな太宰治的青春映画と間違えたんだろうかともいった考えがよぎった劇場アニメーション映画「同級生」。見て思ったのは、これが実写化されていた場合の空気感はいったいどうなったんだろうか、といったところで、たとえアイドル的な美しさを漂わせた役者であっても、というかむしろそういう役者であればあるほど、どこか違った印象になったような気がする。

 中村明日美子の原作漫画「同級生」(茜新社、619円)が持つ、シンプルな戦で綴られるどこかふわりとしてそれでいてソリッドな部分も持った絵柄だからこそ漂う、日常にとけ込んでしまっている男の子同士のサラリとした関係を、アニメーションではよりカラリとした線で、時にコミカルな動きも混ぜて描いてあるから、見ていて粘性のセクシャルを感じさせられずに済んでいる。そして淡々と進む関係を、男女に問わずあり得る初恋の気恥ずかしさを覚えながら観ていくことができた。そんな映画だった。

 いわゆる男の子同士のホモセクシャルへと向かう関係を描いた作品ではあるけれど、そこに性的なニュアンスを持った淫靡さはなく、またそういったカテゴリーの作品を例える時の耽美といった言葉すら当てはめづらい。そんな空気感。BLだとかやおいだとかいった言葉を上に積んで、一種の様式として理解することとも違って、日常の延長線上に普通に存在することだと了解できる人と人との関係、それがこの場合は男の子どうしに過ぎないという関係を描いた青春ストーリー。だから、観て公序良俗だの道徳観念といったものからの突破に喝采するような感慨を覚えることはない。ああそうなの、そういうこともあるんじゃないのといった、淡々としたビジョンって奴が通り過ぎていくそんな感じだとも言えそう。

 とはいえ、そういう意識に至っていられるのも、過去から現在に至るまで、世にあふれる耽美に淫靡な諸々の作品を経て、BLといった様式なんかもくぐり抜けて至った中村明日美子という漫画家の境地だからであって、それが映画となって劇場にかかったとしても、慣れ親しんだ気分をちょっぴり、公然とした場で味わうむずがゆさはあっても、受容できる。これをもし、太宰治的純文学風世界観めいた認識で観た人がいたとしたら、たとえサラサラにカラカラとっした、爽やかで淑やかな関係であっても、なんだろうこれはといった感覚を抱くかもしれない。

 深夜のテレビで放送されるアニメーションだったら、自分には関係ないものだと観ないでいられるけれど、映画館だと街中に空間として開かれていることもあって、知らず観に行ってしまいおやといった感覚に至るかもしれない。そこはすでに慣れ親しんだ人間なんでちょっと分からないけれど、そうではなく、普通に友情の延長であり、あるいは稲垣足穂的な意味での“耽美”を今に描いた作品だと感じて気恥ずかしさを覚えつつ、普通に観てしまえるのだとしたら、それは作品が持つひとつの気質だと言えるかも。

 絡みとかなくセクシャルな描写も避け、それで浮かぶ人と人との心と心の関係。それがちゃんと描けている漫画であり、そして映画だと思われれば大成功。その上で、男性同士の恋というものへの感心を、ちょっとだけ積み上げ世間の認知をもう少しだけ押し広げられたら、世界はもっと愉快になるのだろうけれども、果たして。あとこれが一般にも受け入れられるかもしれないとうのは、やはり実写ではないということも大き気がする。

 たとえ漫画に似せたキャストを選んでも、そこに人が絡むと表情も仕草も人から出るものがやっぱりある。累々としてあるそうしたカテゴリーにたいする偏見にも似た見方が、人間が演技した場合だとよやっぱり出やすい気がするし、演じる側にも中村明日美子さんの描く漫画のキャラクターのような雰囲気は出せないだろう。漫画で人気が出てくると、次は実写化だなんて動きがあるけれど、それは違うということをこのアニメーションが示していると言えそうだ。

 もちろんアニメーション化ですら漫画の雰囲気を壊して違うものになる可能性はある。「同級生」でも佐条利人という眼鏡の秀才の雰囲気が、漫画では三白眼気味で暗さが漂い手を触れるのも厳しそうな感じになっている。アニメだともう少し優しく、あるいは繊細な感じ。それは線の差があり色というものの力がある動きという要素があるからで、そうした差異をもしかしたら漫画のファンは気にしているかもしれない。ただ、実写になるよりは漫画に近く、それでいてアニメーションならではの動きが持つ切迫感なり躍動感があるし、息遣いなどからにじむ熱量めいたものもある。その意味でアニメーションになってこその作品だった、って言えるだろう。良い映画。そして多くの可能性を持った映画。続くかな。「卒業生」へと。


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