ドニー・ダーコ
Donnie Darko

 何かを選ばなくっちゃいけない時があって、それが自分の命と他人の命だった場合に自分は、あなたは、人間はどっちを選ぶんだろうか。そりゃ自分の命だってエゴイストな人だったら答えるだろうけど、そんな人でも肉親とか、恋人の命が自分の命と天秤にかかっていたりする場合だと躊躇してしまうもの。その意味で人間は生まれながらにして善人だったりするのかもしれない。

 リチャード・ケリー監督・脚本による「ドニー・ダーコ」という映画があって、それをアーティスト・小説家・漫画家・モデルのどれでもこなす才人のD(ディー)がノベライズだかコミカライズだかした「ドニー・ダーコ」(ソニー・マガジンズ、1500円)には、自分と他人の命という、究極の選択を強いる場面が出てくる。ドニーが行いの良い人間だったら別に不思議はないけれど、そうでないからドラマになるし、いろいろと考えさせられる。

 ドニーは高校生だけど成績はともかくとして振る舞いに多少の問題があって、刑務所だか少年院だかに預けられていた経歴もある。今はとりあえず落ちついてはいるものの、やっぱり精神にいささかの揺れがあるらしい。そんな精神が見せたものなのか、それとも別の要素が働いてか、ある夜ドニーは、着ぐるみのような大きなウサギに呼び出されて近所のゴルフコースへと出かけていく。

 ウサギはドニーに「終末だ、ドニー。あと28日と6時間と42分と12秒。それが世界の終末までの残り時間だ」と告げる。そしてドニーがウサギと合っていた同じ時刻、抜け出していたドニーの家のまさにドニーの部屋へと空からジェット機のエンジンが落ちてきて、部屋を押しつぶしてしまう。

 幸いにして無事に生き延びたものの、ウサギに言われたことが気になってしかたがないドニー。精神の方は一進一退でカウンセリングには通い続けていて、「タイム・トラベルの哲学」だなんて本を大昔に書いた今は「死神オババ」と呼ばれる女性があたりに出没して、自己啓発セミナーを主宰しつつその実子供を食い物にしている男が現れてと、それなりに目まぐるしい日々を送る。

 そんな中で射した光明がグレッチェンという彼女が出来たことだけど、一方でウサギに言われた28日と6時間と42分と12秒後がジリジリと迫っていてドニーの不安は増すばかり。そして訪れたその日、最後の事件が起こってドニーに究極の選択を突きつける。

 それがどういう状況なのかは想像のとおり。どういう経緯でそうなって、結果何が起こったのかも読めば分かる。そして考える。自分なら、他人なら、人間ならこんな時どうするんだろうかと。ドニーのように振る舞うんだろうかと。答えは……やっぱりその場にいあわせないと出せそうもない。だからこそ究極なんだろうけれど。

 前作「キぐるみ」(河出書房新社)でも使ったコミックの部分と小説の部分がシームレスに続く手法で描かれたD版「ドニー・ダーコ」は、恐怖と絶望と希望に揺れ動くドニーの精神をそのま文字にして引き写していったような小説部分の文体が醸し出す不安定な感じがまず面白い。なおかつそうした文章が突然漫画に変わる場面は、とりあえず平穏に見えていた日常に異常な状況、強烈な体験、凶暴な人たちが突如現れて、登場人物の目や心を驚かせる仰天させる感じをそのまま現しているような気がする。

 映画の、それもタダモノじゃない映画が本に直す上で、ただ小説だけではなくって、もちろんただ漫画だけでもないハイブリッドな描き方を採用したことが、これほどまでにマッチするのかと驚かされる。それと奇矯な形の着ぐるがが出てきて、現実とも悪夢ともつかない曖昧な状況の中で奇妙なキャラクターたちによるグロテスクな物語が繰り広げられる内容は、「ファンタスティック・サイレント」(KKベストセラーズ)以来、Dが得意として描いて来た世界そのもの。「これは絶対に渡しが描かなきゃ! って思いました」ってあとがきで書くのもよく分かる。

 物語の冒頭ではどこから落ちてきたのか分からなかったエンジンの出所が、ドニーの究極の選択とも絡んでのものだったということが伺えるラストが示唆するのは、ドニーひとりの問題に留まらない惨劇だったりして身も凍る。それとも究極の選択が過去に戻っての未来を変えて惨劇を防ぐのだろうか。それならばドニーの選択も起こらなくなるのではないか。いろいろ悩ましい部分はあるけれど、それはそれとして、ドニーのとった選択の価値は変わらない。悲しもう。そして称えよう。自分にいつか来るかもしれない究極の瞬間を思いながら。


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