DOMESDAY

 神なき時代に次なる神を求めて宇宙に人がさまよう平谷美樹の「エリ・エリ」(角川春樹事務所、1900円)が、まさしく小松左京賞に相応しい作品だとするならば、浦浜圭一郎の「DOMESDAY」(角川春樹事務所、857円)はこれぞ小松左京賞佳作に相応しい作品だと言える。

 ある日突然にリング状の物体が日本列島の上に出現する「物体O」から、霧状の物体に首都が覆われてしまう「首都消失」へと続いた小松左京の”閉鎖物”流れを見事に組んだ作品で、プラス堀明の梅田地下街に閉じこめられた人々の争いながらも生き抜こうとする活力を描いた「梅田地下オデッセイ」も想像させる内容に、これは果たして先達たちへのオマージュなのか、それとも単なるバリエーションなのかと悩みながら読む人も多いのではないだろうか。

 今の日本で言うなら東京・恵比寿ガーデンプレイスをモデルにしたと思われるオフィスと住宅、ショッピングセンターにアミューズメント施設が立ち並ぶ空間が、突如としてドーム状の物体で覆われてしまう。加えて上空より「天使」と呼ぶにはおぞましい姿をしたものが降りてきては閉じこめられていた人間をさらって壁面へと取り込み壁面を赤く染める。さらに天使はドーム内で死んだ人間を連れ去っては再び血肉を喰らう一種の「ゾンビ」としてドーム内に戻すこともやってのける。壁面に押しつぶされることもなく天使に浚われることもなく生き残った人々は、ゾンビの襲撃と食糧の不足に怯え悩みなつつ生きて行くことになった。

 あるSF作家は宇宙を航行するドームだと主張し、ドームの天空部分に開いた隙間から星を見たと言い張る。別の男は宗教を組織し教祖に収まり信者たちに秘密の儀式をほどこしては次々と従えていく。少年たちはアミューズメント施設に集まり快楽に行きようとする。閉じこめられた人々の、生々しくも人間らしい部分で助け合ったり諍いを起こし合ったりしながら次第に達観していくプロセスを見ると、政治的・経済的な混乱や日本人のアイデンティティにまで踏み込んだ作品の壮大さとは違った身に近い部分で、閉じこめられることへの恐怖感と閉じこめられても何とかなるんじゃないかという希望が湧いて来る。

 堀晃の「梅田地下オデッセイ」の場合ではしっかりと解き明かされる地下街閉鎖の意味だが、「DOMESDAY」ではドームの意味について物語ではなかなか突っ込んはいかないし、どうやらそれが目的でもないらしい。驚くべきシチュエーションを科学なり、空想なりの力で説明しては感嘆させる「SF」とするには、そこが判断の迷う部分で、あるいは特定のシチュエーションにおける一種の思弁小説と見ることも可能だろう。

 もっとも考えてみれば「物体O」の原因は非常にナンセンスなものでどちらかと言えば”バカSF”に近いものだったし、記憶では「首都消失」にも明解な説明はなかったはず。むしろ異常な環境における人間の悲喜劇の部分にセンス・オブ・ワンダーを感じさせる方が目的だったように思う。その例に倣えば「DOMESDAY」は、閉じこめられたというシチュエーションの中で人間たちが見せる戸惑いやあきらめ、不屈さ、想像力などにスポットをあてたという意味で、正しく”小松イズム”を受け継いだ作品であると言って良いだろう。

 野生が檻に入れられた時に感じるストレスを、例えば人間が狭い場所に押し込められた時に感じるものなのか。そのあたりは浅学ゆえに知らないが、野生を理性で押さえられるのが人間ななんだとするならば、大音響とともに出現した直径376メートルのドームの中だけで暮らしていても、案外と人間生きて行けるのかもしれない。だいたいが人間は宇宙の中に今のところ生まれてからずっと孤独の中を生きて来た訳で、それを思えば狭い範囲でも人がいて会話があるドームの方がよりアットホームなもの。逆にいきなりドームが消えてなくなった時の、安定していた環境が崩れさって起こることの方が恐ろしい。

 逆境も順境に代えて生き抜いて行く人間の強さを称揚したものなのか、確固たるものをもたず場に流されても平気な人間のなれ合う習性を批判しようとしているのかも分からない。あるいはそのどちらをも含んで人間という生き物のしたたかでしなやかな様を描いた書だということになるのかもしれない。物語の中の非日常的なシチュエーションに身を置いて、そんな時あなたらなどうするか。私ならどうするか、といった設問に対する身の施し方も含めて、人間という存在が持つ可能性について考えてみよう。解はそこに無数にある。


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