幕末の毒舌家

 世に毒舌の種が尽きまじ。何ごとにつけても一言云わずには済ますことのできない人種は、過去現在未来を通してかならずや存在し続ける。

 時には時代のトリックスターとなってもてはやされ、あるいは時代の反逆者となって虐げられもするが、いずれにしても何らかの言葉を時代に残し、お上が刻んだ”正しい”歴史の書とは違った角度から、当時の世相を後の世に浮かび上がらせる。

 野口武彦の「幕末の毒舌家」(中央公論新社、2000円)に登場するのもそんな毒舌家のひとり。名を大八木醇堂という彼は、江戸末期の1938年から明治も30年目の1897年まで生きた人物で、幕末維新の動乱を、江戸にあってつぶさに見てそれを膨大な書物に記してきた。

 とはいえ一般にはまるで知られていないこの人物。生い立ちに問題があったのかはたまた性格に難があったのか。書くことの大半は嫌味も混じった罵倒文。残りは自分の頭の良さについての自慢話。それだけに偉人傑人の多く生まれた幕末にあって、広く人口に膾炙され、語り継がれることにはならなかった。

 もっともこの大八木醇堂。語るに足らない人物かというとこれが違う。たとえ悪口雑言に罵倒に自慢話であっても、そこに江戸でも最優秀に近い頭をもって溜め込まれた該博な知識が入るものだから、読んで含蓄があり示唆にも富み、且つ真正面から時代を見ていては捉えられなかった何かがそこから浮かび上がる。

 何しろこれまた該博な知識を持った作家の野口武彦が、現代の言葉で行った醇堂の文章の解釈で綴られた「幕末の毒舌家」。悪口雑言の裏にある、醇堂のおかれた立場や育まれただろう性格を読み、そこからどうしてこういうものの見方が出てきたのか、そしてその時代の江戸や幕府はどういう状況にあったのかを解説してくれている。

 もともとは旗本の家に生まれた醇堂は、祖父が将軍家より水戸家に嫁いだ姫様の世話役とゆー偉い人だったけどこれが偉すぎたこともあって、その死後もしばらく生きていることにされてしまい、既に宮仕えしていた父親もいたため3代は出仕できないという規約に引っかかって、それなりに優秀な成績で官吏登用の試験に通っても仕事がもらえず腐ってた。

 そんな挫折と金持ちへの僻み妬み嫉み(お姫様の世話人は給料も良いが、その分体面を保つ出費も多くて赤字らしい)がつもり鬱積して生まれた醇堂の文章は、自分が水練の時に将軍様の前で披露した日の丸半纏が幕府の軍艦旗になり、やがて日本の国旗になったとか、水戸の碩学・藤田東湖に出会った時も子供ながらに小癪な問答をしたとかいった自慢話が織り交ぜてあって、ホントウなのかウソなのか、分からないながらも負けず嫌いな感じが出ていて、反感と裏表の愛着が湧く。

 幕府の事情に詳しい一方で、悪所と言われる場所についても詳しかったりする醇堂。一体どうしてそんな知識を持っているのかと、その性格への興味も生まれる。それだけの逸材でありながら、歴史から消えてしまっていたのはやはり悪口にまみれた言葉への強い反感と、行儀の悪さに対する忌避感が明治大正の人たちの間に強く残っていたからだろう。

 野口武彦はそんな醇堂をこう評する。「世を拗ねる。冷眼で見る。白眼視する。幕末の時代を不遇に生きた醇堂の眼差しもやっぱり偏見に満ちている。自分を受け入れない社会に向けられる目はどこか歪んでいて、皮肉やで、冷罵と嘲笑でしか世界と接しないところがある。これも立派な偏光レンズである。その独特の解像力をもって、歴史を見る光学装置に利用できないか。ひがんだ見方だからこそかえって、<幕末>における社会と人間の真実が顕れ出るのではないか」。

 なるほどそう思えば、一種歪んだフィルターを通して描かれた江戸明治の諸相が、官製の歴史とも戯作の類とも違った趣を持った、人の息吹と血肉の感じられるリアルな姿で立ち現れて来る。そんな時代だったんだ、そしてやっぱり人間が生きて歩いていたんだということを感じさせてくれる。

 同時代で生きていたならその歪みを単に歪みと見て、虐げ埋もれさせてしまったかもしれない。けれどもうまく利用しさえすれば、偏光レンズも立派にレンズの役割を果たす。なればこそ、今、偏光レンズの向こう側から時代を切り、謗り罵倒している人たちの中にも、100年の後に醇堂と同様の、時代の諸相を確実につかみ浮かび上がらせようとしていた批評かがいるかもしれないことを、認識しておいた方が良いのかもしれない。

 ならば果たして今の世に生き語り綴っている大八木醇堂は一体誰なのか? それが分からないのがこれまた時代の難しさ。なれどここに生まれた「幕末の毒舌家」を頼りにして、偏光レンズを順光へと改める目を養い、少しでもその存在に近づこうではないか。


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