でかい月だな

 人の心というのは微妙なもので、外から見ているとまったく理由が思い浮かばないのに、急に暴れ出してみたり、逆におとなしくなってみたりして、周囲にいる人たちを戸惑わせる。けれども探ればちゃんと理由みたいなものはあるもの。ちょっとしたズレとかちょっとしたヒビとか、ちょっとした幸せとか不幸せとかいったもので、それが人を善にも悪にもつき動かす。

 水森サトリの「でかい月だな」(集英社、1400円)では、綾瀬涼平という13歳の男子中学生の心が、理由も見えないままに爆発する。同級生のユキこと沢村幸彦と2人、綾瀬の兄貴のイタリア製スクーターを勝手に持ち出し、とことこと無免許で2ケツで遠出した帰り道。峠でガス欠となって立ち往生してていた時に、ふと見上げた空に満月が輝いていた。

 「でかいな」と綾瀬が呟き、つられてユキも見上げたその時。ユキの胸元を突然、綾瀬が蹴り飛ばしてユキを斜面へと落とす。気を失ったユキが目を覚ますとそこは病院で、転げ落ちたはずみで脚が骨まで粉々になっていた。バスケットボールの選手として活躍していたユキだったが、もう2度と前のようなプレーはできなくなっていた。

 どうして綾瀬はユキを蹴ったのか。理由を聞く間もなしに綾瀬は施設へと送られ、ユキの前からいなくなる。残されたユキは、夢を奪われた、傷つけられたと家族が激しく綾瀬に対して怒るなか、どうにも不可解な綾瀬の行動が気になったのか、妙に心が醒めていて、家族の非難と自身への同情を疎ましく思っていた。

 リハビリを経て学校へと通い始めてからも、ユキはずっと綾瀬のことが気になっていた。長い入院で出席日数が足りず留年し、同級生だった仲間と別れて1級下のクラスに入り、周囲に知人もいない学校生活のなかで、年上への敬意や、障害をかかえた体への同情が入り交じった視線を浴びながら、浮き上がった日々を送っていた。

 そんなある日。頭は良いのにどこか得体に知れないところがあって、「あの変てこな科学オタク」と陰口をたたかれていた中川京一と知り合う。旧理科準備室を自分の研究室をにして、「錬金術同好会」なるものを作り、錬金術だの霊界との通信装置だのを研究していた中川に、ユキは部員が足りないからと引っ張り込まれる。一切の遠慮も気後れもなく中川はユキに話しかけ、ユキも家族の同情から逃げるように中川の家へと足を向けるようになる。

 もう1人、こちらはユキを過剰にいたわるどころか、むしろ激しく憎悪するそぶりをみせる横山かごめという少女が、ユキの日々に影響を及ぼし始める。どういう訳か片目に眼帯をし続けている彼女のことが、ユキは気になって仕方がない。無視されるのを承知でかごめに話しかけ、また中川の研究室に通う日々を続けているうちにユキは、街に奇妙な現象が起こっていることに気づく。

 世界が妙に優しくなっていたのだ。犬や猫が捨てられていても保健所に送らず、皆で里親探しに奔走する大人たち。虐め無視していた横山かごめにせっせと話しかける同級生の少女たち。年上だからと敬遠していたユキにまとわりつきはじめる年下の同級生たち。収集のない日にゴミが出ることもなくなり、駅前に違法駐輪の自転車も並ばない、暴力的なまでの優しさが街を包んでユキに違和感を抱かせる。

 いったい何が起こっているのか。それはユキの目に見える中空を泳ぐ魚と何か関係があるのか。かごめがずっと眼帯していることと繋がっているのか。やがて訪れるとネットなどでささやかれていたその瞬間に、ユキはわだかまっていた過去と体面するため、家を飛び出しかつて綾瀬と行った海辺へと向かう。

 不思議なシチュエーションが織り交ぜられてはいるが、ファンタジーとかSFと言い切るほどの不思議はない。微妙で繊細な心に働きかける何かがあって、誰もが過剰に優しくせざるを得なくなった。少年時代の経験から育まれた、好きなものを永久に留めておくために壊すという振る舞いを蘇らせた。なるほど、説明されれば納得できる理由は語られている。

 もっとも理由が分かったからといって、そこから先へと進むためにはとてつもない勇気が必要だ。背中を押してくれる力が必要だ。そんな力をもたらしてくれるものが、ちょっとしたサジェスチョン。それがあれば、人は立ち止まっている場所から前へと、足を踏み出し歩み始められる。

 ユキは前に踏み出した。そんな様が描かれた「でかい月だな」を読んだ人たちも、自分で歩きだそうという気持ちが心にわき上がる。

 天才で、すべてを達観している風情を漂わせる中川というキャラクターも強烈なら、眼帯を常にはめ、学校ではむっつりと押し黙っているのに口を開けば悪口雑言が止めどなく飛び出し、蹴りまで放つ横山かごめというキャラクターも超強烈。キャミソールにカットジーンズで悪口雑言を繰り出し、迫るかごめのビジュアルを目に浮かべ、惹かれる男性も多そうだ。

 もっとも、そうしたキャラクター性で押すエンターテインメントというよりは、シチュエーションから浮かび上がってくるテーマに何かを考えさせられる青春ストーリー。重なっていた道が突然に分かれてしまう理不尽を、周りの反応も含めてどう受け入れどう噛みしめどう昇華させていくのか。そんなメッセージによって、モヤモヤとした悩みに足踏みしがちなティーンの心を刺激する。

 読み終えた心から闇は消え失せ、差し込む月光にやがて来る朝を思い、自然と顔が上へと向くだろう。


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