誰も知らない 〜子不語〜

 「誰も知らない 〜子不語〜」(集英社、1巻−3巻、各600円)という漫画があります。建築関係の学者で、古い建築物の修復をして歩いている父と母の間に生まれた少女・莫語(もうゆう)が、都会から移り住んできた山間部の集落で、その身に備わっていた能力ゆえか、妖怪や幽霊や精霊といった存在を感じ、交流していくというストーリーの作品です。

 友だちと遊びに行った川の淵で、語は巨大な魚の影が、水の中を横切る姿を見ます。そこが危ない場所かもしれないと怖くなって、語は淵から逃げ出しますが、その後で、残してきた友だちが溺れてしまったと聞いて泣き出します。幸いにして友だちは助け出されますが、その原因を川底の浚渫に見たがる大人たちとは違って、語には自然を慈しまない心に神様が与えようとした罰なのだと分かってしまいます。表には見えていない事への配慮を、読む人は感じることでしょう。

 東岳廟という場所があって、そこに向かおうとする青年の後を、気になって語はついていきます。幼い頃に親しかった少女が、そこにいるという青年の言葉は、実は冥界への道行きを意味していてます。青年は少女の姿を見つけて、そのまま進んでいこうとしますが、語は向こう側にいた少女の言葉を聞き、青年に伝えて踏みとどまらせ、元の世界へと引き戻します。不思議な力を持った、謎めいた存在の琥珀でも驚く語の力に、強くて純粋な心を持ち続ける大切さを感じさせられます。

 その内容には、少年が、友人帳と呼ばれる台帳に名を留め置かれた妖怪たちと、時に諍い、時に馴染みながら絡んでいく緑川ゆきの「夏目友人帳」(白泉社)や、これも少年が、祖父の使役していた青嵐という龍の守護を受けながら、妖怪たちの関わる事件を解決していく今市子の「百鬼夜行抄」と、相通じるところがあります。自然への慈しみや、旧いものへの愛着、神秘的な存在への敬意にあふれていて、荒んだ現代の社会に生きる人たちの心をさらりと洗いながら、葬り去ろうとしている過去への再考を促してくれます。

 絵も繊細で緻密な上にとても巧みで、描き混まれた自然の風景や、古めかしい建物の姿が、強い憧憬と感慨を呼び起こして、そうしたものへの情愛を改めて呼び覚ましてくれます。キャラクターたちも、少女は可愛く職人は力強く、異形らしき若者は深淵に描かれていて、その豊かな表情、美麗な佇まいに絵ながらも、ついつい惚れてしまいそうになります。

 「誰も知らない 〜子不語〜」を描いたのは、夏達(シャアタア)という女性の漫画家です。その名が示すとおりに日本人ではありません。中国出身で今も中国にいて、中国の雑誌などに向けて作品を発表しています。「誰も知らない 〜子不語〜」も最初は、「子不語」というタイトルで中国の雑誌に描かれていて、それで中国最高峰と言われる漫画の賞、金竜賞の最優秀少女漫画家賞を授賞して、大きな注目を集めました。日本の雑誌で異例とも言える連載を持つようになったのも、そうした実力を買われてのことだったようです。

 これだけの漫画大国となり、そのことを自認する日本の人の目には、夏達の「誰も知らない 〜子不語〜」に、日本の少女漫画を読み込んで、模写して描いたような雰囲気を、感じるかもしれません。確かに夏達は、中国にありながら、何冊もの日本の漫画を読んで、漫画への興味を深めていったようですが、絵については、そうした日本の漫画に刺激されて描き始めたのではなく、中国の伝統的な絵画を描きながら、だんだんと上達していったようです。

 日本人でも細密な絵を描く漫画家はおおぜいいますが、夏達の線にはどことなく、中国の伝統的な絵画に通じる様式美が見て取れます。院体画や北宋画といった、写実的でありながらも様式的な雰囲気を持った絵画の流れ、あるいは、心からわき上がるイメージを端的に移していく南宋画の流れをその内に、受け継いでいるからこそのあの絵柄、といった見方もできるかもしれません。

 その上で、高橋留美子や冨樫義博、井上雄彦、羽海野チカら日本の人気漫画家から、ストーリーテリングや表情を描く技法を学び、皇名月、山田章博さんといった、日本でも飛び抜けて繊細なイラストを描く人から、絵画ではなくイラストとして見せるための技法を学んだとう夏達。そこに、自分が祖父母から教わった旧い言い伝えを取り入れて描いた作品が、「誰も知らない〜子不語〜」ということになります。

 誰かの真似でもありません。日本の真似でもありません。夏達自身のオリジナリティと、夏達自身のアイデンティティが存分にこめられた、完全なまでのオリジナルな漫画。それが「誰も知らない 〜子不語〜」と断じて、決して間違いありません。  繊細で緻密な絵を描く時に、夏達は顔を原稿用紙にぎりぎりまで近づけ、丸ペンで1本1本線を描いていきます。女性ですから手は決して大きくはありません。腕も太くはありません。そんな手に手にペンを握って、原稿用紙に細い線を、一所懸命に刻み込んでいきます。

 自然への慈しみや、消え去ってしまうものへの憧憬を、映像や写真として残る記録としての過去ではなく、人が感動とともに心に刻み、思い出として語り継いでいけるように、漫画として、ストーリーとして、漫画の形で描いていこう。そんな思いで、1本1本線を刻んでいるのです。見てただ美しいと感じるだけではなく、なにか強い意志のようなものが、繰るページから浮かび上がってくるように感じるのも、そうした思いが線に、絵に込められているからなのかもしれません。

 紡ぐ物語も描く絵も、どこまでも高い完成度を持っている夏達には、もはや中国人であるといった情報も、そして外見がとても麗しいといった情報も、あまり意味を持ちません。すばらしい作品を描いた。それだけで讃えられ、語り継がれ、そして次に何を描くのかを注目され続けるに足る漫画家だと言えそうです。

 なによりも当人が、顔を出すことをそれほど良しとはしておらず、自分が描く絵や漫画を感じて欲しい、といったことを望んでいます。もちろん世評は、そうした本質よりも、表層を重んじて伝えようとしてしまい、当人の真摯な願いの逆を行ってしまうことになりがちです。残念ですが、それが社会なのです。

 だから、最初はそうした表層的な関心から、夏達に興味を抱く人がいても仕方がありません。それでも作品を読みおえた後は、何が描かれているのかを思い、しみ出す意志を自分としてどう世に還元していくのかを考えていって欲しいと、そう願って止みません。もっとも、読めば誰もが自然に、そうした思いになることでしょう。それだけの説得力を、夏達の漫画は、「誰も知らない〜子不語〜」は持っているのです。


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