マジカル血煙コミック
大魔法峠

 魔法少女もののパロディといわれて、真っ先に「魔法少女プリティサミー」を思い浮かべることが、正しいのか間違っているのか悩ましいところで、もともとは確かに「天地無用! 魎皇鬼」のなかに、いかにもな魔法少女として妄想的に出てきたものだったけれど、OVAになりTVシリーズになってそれなりに魔法少女ぶりを披露していた「プリティサミー」の姿は、もはやパロディの枠を超えて立派に一本立ちした魔法少女物、だった。

 もちろん「魔法少女のパロディをTVシリーズにまでしてしまうという行為そのものがパロディ」だといっていえなくもないからさらに悩ましい。この倒錯ぶりに比べれば、魔法少女が実は極悪非道な性格で、地球を愛によって救うためなんかではなく恐怖によって支配するためにやって来た侵略者だった、なんて大和田秀樹の「大魔法峠」(角川書店、540円)の設定は、極めてシンプルでストレートな魔法少女物のパロディだといえるだろう。

 田中ぷにえは天空の聖魔法王国から転校して来た女の子。可愛い顔と愛想でもって学校中の男子から注目を集めてしまった彼女を当然、他の女生徒がちが面白く思うはずもなく、学校を仕切る姉御が喧嘩をふっかけたもののそこは野菜を自在に操るぷにえの魔法で撃退されてしまった。

 そんな姉御に差しのべられたのが謎の男からによる救いの手。魔法を無力にするという邪神の像を受け取り再びぷにえに挑んだ姉御だったが、そこは次代の女王の地位を約束された田中ぷにえ、邪神像によってものの見事に魔法を封じられながらも、魔法とは違った自らの能力をフルに発揮してこのピンチをしのぐのだった。その能力とは?

 それは読んでのお楽しみ、というより裏表紙を見れば明々白々、姉御を肩にかついでアルゼンチンバックブリーカーを決めた姿から、ぷにえが魔法以上に”肉体言語(サブミッション)”の使い手であることが伺える。そして本編でそのシーンに至った時、可愛くてほのぼのとした魔法少女物だと入れ込んで読んでいた心はもろくも粉みじんにされ、新しく別の殺伐として痛快無比の感情が全身を覆い、煮えたぎる情念の中へと叩き込まれる。

 懲りずに襲いかかって来る姉御を抱負な肉体言語と武器によって撃退し、ぷにえの母親で魔法の国の女王・エスメラルダによって排除された前王の娘の、達者な魔法とぷにえに匹敵する肉体言語の使い手・エリーゼ=フォン=バルバロッサこと”穴堀りエリィ”の攻撃も退け、恐怖と権力によって着々と地球の支配権を確立していく物語は、愛くるしさで人々の気持ちを虜にして幸せを運ぶ魔法少女物の逆を行く。

 さらに魔法少女物といえばつきものの、可愛いマスコットの存在にも徹底しての転倒が取り入れられる。魔法の国からやって来たパヤたんという小動物、表向きはぷにえを慕い共についてはいるけれど、その実態はいつ何時とも相手が気を抜けば襲いかかってこれを討ち果たす弱肉強食が掟の生き物。ぷにえはこれを例の肉体言語で討ち果たして、食うや食われるやの関係を維持したままで伴にしたのだった。

 表紙からして魔法少女物が連載されていて不思議のない、少女漫画誌から出ている単行本を模したデザインで、手にはステッキを持ちすそからフリルののぞいたフレアスカートを身にまとった美少女が、燃えさかる国会議事堂をバックに笑顔で佇むという内容。かようなまでに徹底されたパロディ精神を、讃えて誉めるに何の異論があるものか。

 あるいは魔法が善で魔法少女は善意の固まりだという固定観念を払拭して、昔ながらの価値観に立って魔法は不善で魔法少女は魔女にも等しい存在なんだと解釈すれば、主人公が極悪非道な侵略者だという設定でも、立派に魔法少女物なのかもしれない。つまりは「大魔法峠」は魔法少女物のパロディなどではなく、本家にして王道の魔法少女物だといえるのかもしれない。他に類例がないのが厳しいところだが、「大魔法峠」が嚆矢となれば良いだけのこと、これを本家とした真・魔法少女大戦を繰り広げていってもらいたいものだ。


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