クレープを二度食えば
とり・みき自選短編集

 「クレープを二度食えば とり・みき自選短編集」(筑摩書房、620円)は、文庫サイズのコミックが、リニューアルの体裁を取って数々出ている時代にあって、ひと味違った名作・傑作・怪作漫画を選んで収録している筑摩での文庫化という点で、どことなく恒久感が漂っている。永遠に残されるべき、語り継がれるべき作家であり作品ということなんだろう。

 入っている作品はいずれも前に読んだことがあるものばかり。とは言うものの、いわゆる「少年マンガ誌」の単行本とは違ったカテゴリーに属する形で登場した「とりみ菌」に所収の「銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ」や、新書サイズの単行本シリーズという形での刊行が珍しかった「プチアップルパイ」に初出の作品、連載当時は目にしなかったものの後に単行本の「犬家の一族」に入っているものを読んで感嘆した表題作を読めるのは、やはり有り難いし懐かしい。

 2話目の「遊星からの美少女X」との出会いが、とりわけ強く記憶に残っている。ロリコンマンガが今のようにどこか反社会的なニュアンスを込めて語られず、高踏な中に一抹の自虐も篭った趣味として流通していた時代に、美少女コミックアンソロジーとして刊行された「プチアップルパイ」を読んだ時、中に見慣れた感じの見慣れない絵柄が出てきて、いったい誰だと思って名前を確かめとり・みきだと気づいて、こんなタッチも描けるのかと驚いたからだ。それまでの作品に流れていた、レトロなアイティムを入れ込んだドタバタとは違った、スラップスティックながらもどこかに甘酸っぱさのあるトーンが陰影のはっきりとした大人っぽい絵柄と相まって、強い印象を受けた。

 絵のタッチについては、「とりみ菌」に所収されていた大原まり子原作の「銀河ネットワークで歌を歌ったクジラ」に始まって、「SFマガジン」に所収の短編や長編「山の音」へと続き最新長編の「石神伝説」へと流れる、スクリーントーンを使ずカリカリとペンのみで描ききる画法でも、同じくのけぞった記憶がある。

 かつて「少年チャンピオン」誌上で話題となって、ファンになるきっかけにもなった「るんるんカンパニー」や続く「たまねぎパルコ」「クルクルくりん」の極めてマンガチックな絵柄との間に、とにかく激しい隔絶があったからで、人間鍛えれば強くなるし空だって飛べるし湖の水だって飲み干せる、かもしれないということをその作品から存分に教えられた。疲弊し沈黙してしまうギャグマンガ家が多い中で、20年経った今も現役第一線に居続けている凄さもなるほど、こういったチャレンジ・スピリッツの結果としてあるんだろう。

 マンガやSFとの出会いを経年的に描いていった「あしたのために」の連作は、若い世代には憧憬と追随の気持ちを喚起させるだろう。マンガに囲まれた少年時代から、東京に上がってSFを軸にして後にプロとなる仲間たちと出逢って現代へと至っているその姿を、若い世代はなぞって自分のものと出来る。あるいは同世代の人には、自分の体験と重ね合わせられて懐かしさと共感を呼び起こすこともあるだろう。

 ただ、SFの仲間たちとはすれ違い続け、踏み込むことができないまま結構な歳まで来てしまった一部の大人には、懐かしさと同時に羨ましさと妬ましさの複雑な感情を呼び起こすマンガでもある。あの時に誰かと出逢っていれば、あの時に投稿を、入会を、参加をしておけば……どうもなっていない可能性は高くても、あるいはプロたちの深度の中でSFに、マンガに耽溺する生活を送っていたかもしれない。

 巻末に所収の「クレープを二度食えば」は、ボーイ・ミーツ・ガールを主題に、タイムスリップを絡めたSF作品で、そこでは「過去は変えられない」という事実が厳然として語られる。もちろんそれでは悲劇になってしまうところを、変えられないからこそハッピーエンドだったいう結末へと持って行ってあるから、甘すぎると苦笑いしつつも気持ちよく読み終えることができる。

 こちらの方でも、つまりはボーイ・ミーツ・ガールの部分でも同様に羨ましさと妬ましさをかすかに覚えてしまったりもするが、決まってしまった過去は変えられないのが真理なら、決まっていない未来がどうなるのかは分からないのもまた真理。再読を契機に今一度、好きなものを好きだったものにしないような生き方を、考え直してみたい。


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