The Story of Beijing Opera
武神戯曲

 歌舞伎役者を描いた漫画なら過去に例を見ることができる。梨園に育った子供たちを描いた遠野一実の「双晶宮」(偕成社、各980円)という作品もあった。けれども中国の「京劇」を取り上げた作品となると、漫画はもとより小説でもどれだけあっただろう。あったかもしれないが、今に残り読み継がれている作品となるとほとんど話が聞こえて来ない。

 上田宏の「武神戯曲1」(メディアワークス、550円)はまさにその京劇がテーマになった珍しくも意欲的なコミックスだ。2002年の日本で普通に暮らしていた辰明という少年は、かつて中国を席巻して古い思想や文化を放逐しようとした運動、文化大革命を逃れて日本に移り住んだとう老人から京劇を教わっていた。

 梅蘭芳という名旦役者の弟子として活動しながらも意半ばで逃げ出した大爺は、いつか梅師父に赦しを乞いたいという思いを辰明に語り、だったら自分が梅さんに会わせてやると答えた辰明に、大爺は梅師父から譲り受けた項羽の面を与える。面を被ってみせる辰明。そしてこれが時空を超えて彼らをつなぐ物語の始まりだった。

 被った面を外した辰明が見渡すと、そこは2002年の東京から一気に80年近くも昔の1923年の北京だった。最初は事情が分からず戸惑っていた辰明だったが、日本から来た財閥の子息と勘違いした中国人の少年と青年の親切もあって、日本人がいる京劇の劇場へとたどり着く。

 そこで辰明は、「覇王別姫」の舞台で愚姫を演じた役者の立ち居振る舞いに圧倒される。そしてその役者こそが大爺の言っていた梅蘭芳だと知らされ、楽屋まで会に行ったところで自分が時代を超えてしまったことを知り驚く。けれども帰れる術がある訳でもなく、日本に戻っても知り合いのいない辰明は、いつか梅師父のもとに弟子入りするだろう大爺を待って、北京で本格的に京劇を学ぶことにする。

 京劇役者を養成する科班に入って、先輩たちの熾烈な虐めにあい、また路上で最初に辰明を助けた少年で、京劇の高い才能を持つ梅師父の弟子、紅蘭の壁にぶつかりながらも、大爺から教わっていたせいか、それとも持ち前の才能か、めきめきと頭角を現していく物語が秘められた才能を信じたい人間の気持ちをくすぐる。

 そんな成長の物語の合間あいまに、「覇王別姫」や「白蛇伝」といった京劇の演目から、科班に入って修行して京劇役者になるステップといった、普通の日本人にはそれほど知られているとは言えない京劇についての知識が語られ、学べるようになっているのも面白い。

 そして何よりも、知っている人の誰一人いない異国の地で、苦境にへこたれず常に前向きな気持ちで頑張る辰明の姿、そんな彼が目標にする梅蘭芳が舞台で見せる圧倒的な姿が、知らず京劇への興味をかきたて、京劇を見たいと大人には思わせ、京劇をやってみたいと子供には思わせる。

 同じ様に子供たちにとっては決してメジャーとは言えなかった囲碁が、「ヒカルの碁」という漫画で広く世間に知られるようになり、漫画自体の面白さも手伝って、囲碁をやってみようと思う子供たちを大勢作り出し、何十年後かの囲碁の隆昌を伺わせたように、「武神戯曲」が京劇を楽しむ子供たちを生み、何十年後かに京劇が日本でも普通に見られるようになれば面白い。

 とは言え行けば碁が打てる碁会所とは違って、日本には京劇を見たり学べる場所は決して多くない。それならば、京劇をテーマにした映画で「武神戯曲」も京劇の舞台や衣装の雰囲気、京劇役者と文化大革命との関係といった舞台設定で参考にしたという、チェン・カイコー監督の「さらば我が愛 覇王別姫」を見るのも一興だ。

 今は科班で切磋琢磨しながら京劇を学んでいる辰明も、遠からず北京を、中国全土を戦火に焼く日中戦争の渦へと巻き込まれ、またそのまま中国で成長すると仮定すれば、大爺に中国の地を捨てさせた文化大革命の荒波に揉まれることになる。

 物語がそこまで続くのかは分からない。辰明の家にいた大爺が何者なのかすら明かされていない中で、80年の時間を超えて現代に生きる辰明と、過去に遡った辰明が出会う可能性すら予想されるが、それはそれとして今はひたすらに、京劇の華やかな舞台とその裏側の熾烈な戦い、そうした中で成長を遂げる辰明の姿に注目しながら、物語がどんな帰結を向かえるのかを楽しみにして、「武神戯曲」を読み継いでいきたい。


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