バイオーム
BIOME深緑の魔女

 インド洋上、スマトラ島の真南に浮かぶ「クリスマス島」は、その独特な生態系から「インド洋のガラパゴス島」とも呼ばれている。地上に棲息するカニたちがいて、海から遠く離れた山の中に巣穴を作り下草を食べて生きているが、年に1度、10月の終わり頃だけ海へと大移動して水辺で繁殖し、産卵しては森へと戻って行く。だが近年、人間たちについて島へと入り込んダアシナガキアリがカニにとっては天敵とも言える存在になって、何万年何千万年もの時をかけて出来上がったクリスマス島の生態系を破壊しようとしている。

 海岸近くの森に巣を作ったアリのそばをカニが移動すると、アリはカニを襲ってこれを殺してしまう。アリは死んだカニを食糧にしてさらに繁殖しては領地をひろげ、カニたちを追いつめていく。カニがいなくなった森は落ちた種も吹いた芽もカニによって食べられないため、またたく間に茎を伸ばして葉を広げ地面を覆い尽くす。ジャングルが生い繁った森にもうカニはいない。

 クリスマス島からカニがいなくなってしまっても、そこに暮らす人間は1つの自然を失っただけであって、自らの存在が脅かされるということはない。クリスマス島に限らず人類が誕生し世界に版図を広げていく過程で、多くの動植物が失われていったが、もう見られない、もう触れないといった感慨はあってもそれで人間の暮らしが打撃を受けたということはない。

 けれどもかつて、クリスマス島の生態系の頂点に立っていたカニたちが直面している惨状を見て、この地球で一応の生態系の頂点に立っている人間たちは考えなくてはならない。ちょっとしたバランスによって崩れる生態系。頂点から転げ置いた存在がたどる自分たちだけではいかんともしがたい滅びへの道。少なくとも今現在の地球で人間を脅かす存在は人間しかいないけれど、いつか他の存在に頂点の座をとって変わられた時に、それでも生き延びて行けるのかを、カニたちの姿に学ばなくてはならない。

 「第2回ファミ通エンタメ大賞」で入賞を獲得した伊東京一の「BIOME(バイオーム) 深緑の魔女」(エンターブレイン、640円)は、圧倒的な自然を前に人間が生態系の頂点としての地位を脅かされ、あるいはそもそもが頂点ではなかった世界を舞台にした、自然の凄さと人間の愚かさを描いた物語だ。

 時は不明で所も不明。もしかしたら地球かもしれないし違うまったく別の星かもしれないその星は、地表の96%が緑の樹海によって覆い尽くされ、人間たちは迫る森林の動植物たちを跳ね返しながら、僅かな土地を切り開いて国を作って生きていた。宮崎駿の映画「もののけ姫」にも確か、かつて山は人間たちを脅かす恐ろしい場所で人間たちはそれを征服することで進歩発展をとげて来た、といった歴史的な経緯が語られていたが、圧倒的な繁殖力と特有の独占欲によって神々までをも御してしまった地球の人間たちとは違い、96%という圧倒的な森を相手に人間は主導権を持てずにいる。

 そんな自然を前に人間たちが出来ることと言えば、自然の摂理に関する知識を使って森の動植物を管理する「森林保護者」(フォレストセイバー)を雇って虫を退治したり、ハンターに頼んで害獣を駆除してもらうことくらい。それでも時には管理の手法を誤り、森の反攻を付けて街ごと動物や植物に飲み込まれ、滅びていくこともあったという。

 主人公のライカという少女は、「フォレストセイバー」として樹海を渡っては国から国へと移り歩いて、そこに暮らす人々を自然の脅威から守ることで生計を立てていた。同じく宮崎駿の映画・漫画に「風の谷のナウシカ」というのがあって、人間たちをしばしば襲う自然と対話する能力を持ったヒロインを登場させていたが、ライカが頼りにするのは同じ「フォレストセイバー」だった父親から仕込まれた自然に関する知識のみ。時には金品を奪って逃げ出すことも厭わないしたたかさで、若い身ながらたった一人で生き抜いて来た。

 その時もライカは、立ち寄ったパドゥーラという国で、大量発生したバンクシアワームによってやられてしまった国にとっては収入源の蔦を守るよう、領主に頼まれてバンクシアワームの駆除に乗り出す仕事を請け負った所だった。持ち前の生態系に関する知識を動員して、ライカはワーム発生の原因を探ろうとする。だがつながっているはずの生態系のリンクに1カ所、欠けている部分があってどういうことなのかと考え、どうにか解決した先にライカを待ち受けていたものは、パドゥーラという国そのものを滅ぼそうとする、怨念にあふれた凶悪な陰謀だった。

 それこそ”風が吹いたら桶屋が儲かる”とでも言えそうな、複雑さで絡み合った自然の関係を知識によって読み解いていく手順は、自然科学や生物学、生態学にそれほど詳しくない目には実に緻密で示唆に富んで見える。そうした自然の関係性を持ち前の知識を総動員して解いていくライカの洞察に、推理小説的な楽しを感じることは可能だろう。またライカ自身が抱える出生の秘密から浮かび上がる人間の業の深さには、何かにつけて他人を区別したがる人間として身を引き締められる。

 けれども何より、ナウシカのようなスーパーヒロインでもなければ、アシタカとサンのように神を殺すことによって受けられる進歩もない、圧倒的にすさまじい樹海の脅威に己の才覚、知識、能力のみで立ち向かうライカの姿に強い感銘を受ける。そして彼女を取りまく人々の見せるさまざまな姿に怒り、笑い涙する。ライカ出生の秘密とも関わるひとつの、そして永遠の別離に泣けない人がどれだけいるだろう。

 かつて原生林ばかりだった地球のほとんどを切り開いた人間の存在を見るにつけ、物語の世界でも知恵で圧倒的、技術も高いものを持っている人間がどうして樹海を半分も征服できずにいるのか、という疑問はあるが、例えば食糧の問題なり、繁殖の問題があって人間が地表に蔓延れないのかもしれない。ともあれ物語世界の特定された条件下で見られる生態系のシリアスな描写は圧倒的。生態系の頂点に立てなかった人間が自然を相手にもがき苦しむ様が、クリスマス島のカニと重なって改めて自然の脅威を気づかせてくれる。

 エピローグに提示される、他にぬきんでた知識と才能を持ったライカが果たして今のままの、秘密を隠しながら「フォレストセイバー」として国々を渡り歩く暮らしに甘んじたまま朽ちるのか、といった問いかけに果たしてどんな答えが用意されているのかに興味がある。そこまで行かずともライカがこの先どんな事態に直面し、それをどんな手段で解決しながら生き延びていくのかを知りたい気がする。スレンダーな肢体に強さを秘めたライカの姿をデフォルメ抜きに描いて、物語への没入に力を貸してくれたOKAMAのイラストともども、再びライカに活躍に出会える日を今は求めて止まない。


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