ベルゼブブ

 例えば夏の夜。洗濯物を取り込むために開けた網戸の隙間をくぐって入り込んだ蚊が、明かりを消して寝入ろうとした顔の回りをプワーンという音を立てて飛び回り、鬱陶しいことこの上ないのだが、枕元の蛍光灯を付けて近寄って来た瞬間をパチリと潰そうと思っても、衰えた運動神経がわざわいしてか手の平の間にうまくおさまってくれず、たった1匹の蚊を退治できないでいる。

 どうして昼間のうちにリキッド蚊取りを買っておかなかったのかと悔やみつつ、あきらめて明かりを消して目を瞑ると、再び耳に届くプワーンという音。せっかくの夜をまんじりともせず過ごし、白みはじめた窓の向こうから届く光に照らされた天井を見上げて溜息を付き呟く。「虫なんて嫌いだ」。

 あるいは初夏の午後、食べようと取り出した羊羹の上を大きな蝿が歩いていた時でもいいだろうし、秋の夕暮れ、ゆでた栗の殻をむいたなかにゾウムシの幼虫が見つかった時でも構わない。畳の隙間をぴょんぴょんとはねるノミ。布団の下をザワザワと動き回るムカデ。行列を作って冷蔵庫の横から遠く庭の隅へと伸びる蟻の群。その姿を見た瞬間、やっぱり同じ呟きが漏れる。「虫なんていなくなればいい」。

 そのどれかだったという訳ではないし、むしろ全然関係がない可能性が高いけれど、田中啓文が「ベルゼブブ」(徳間書店、1143円)を書いたのは、妄想するに夜も眠れないほど虫たちによって心乱されたか、大切なものを台無しにされた経験があったからではないのだろうかと、読み終えてそんなことを思ってしまった。つまりそれほどまでに虫への恨みとか、虫への怨念が感じられる描写とストーリー的展開が、「ベルゼブブ」には溢れているということだ。

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 とある遺跡で発見された無数の赤子の骨と1つの壺。かかっていた封印がとかれた時、大発見だと喚起する教授の姿をよそに、その教授に研究業績をさらわれ名誉教授の押さえ込まれていた悪意が爆発し、遺跡は血みどろの惨劇に包まれる。そしてその惨劇は、遠く日本の東京へと伝播し、人類が神によって創造されて以来、最悪の事態が幕を開ける。

 フラリと現れた謎の男によって、奇怪な蝿を移されたオサマルという名の少年の行くところ、次々と血みどろの惨劇が巻き起こる。まだ歯も生えていない筈の赤ん坊が母親の指を食いちぎり、憑いている悪魔を祓いにやって来たエクソシストたちを狂乱の渦へと叩き込んでは、陰惨な死へと追いやる。

 可愛かったはずのチンパンジーは、芸を見に来た子供たちの喉笛を噛み破り、優しかったはずの幼稚園の先生は、児童をカッターナイフで切り刻み、子供たちの憧れだった着ぐるみのヒーローは、サインをねだりに来た少女の首をその手でへし折る。そのすべてに、オサマルという少年の陰、そして奇怪な虫の陰がちらつく。

 やがて不思議な儀式が流行りだす。公園に集まって来た子供たちは輪になって「オサナゴさま」なる存在を呼び出し、母親の死を、この世の破滅の時を予言してもらう。いっぽうで大人たちも、悪魔を崇拝する宗教にのめりこみ、生け贄を悪魔にささげる儀式を夜毎に繰り返す。

 同じ頃。添川瀬美という少女が夜毎訪れる、「宙馬」と名乗った夢魔のような存在によって妊娠させられる事件がおこっていた。単なる夢かと最初は思っていた瀬美だったけれど、病院で本当に妊娠していることを告げられ驚愕する。瀬美は最初、グルーピーとして付き合っていたアイドルグループの少年、ショウの子だと思おうとした。けれどもショウとセックスした時と合わない妊娠時期に、本当に「宙馬」の子供なのかという疑問が巻き起こる。

 「宙馬」とは何者なのか。見かけによらず悪魔に詳しかったショウが抱いたように夢魔の子供だったのか。それともゼウスの復活を信じて瀬美の前に現れた謎の老人の言葉どおり、復活が予言されたベルゼブブと戦う神の子供だったのか。大人たちの世界への憎悪に満ちた祈りと、子供たちの無邪気な悪意に溢れた呼びかけに応えて悪魔ベルゼブブの復活が迫るなか、2000年前に1度あった神と悪魔との決戦が、東京の街を舞台に再び繰り広げられる。

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 「蝿の王」ことベルゼブブの復活がテーマになった物語だけあって、とにかく全編が虫づくしの物語。それも秋の訪れを感じさせる風情にあふれた赤トンボとか、格好良さで見る人の目をなごませ持ち主を得意にさせるカブトムシといった、人間にとってポジティブな存在として描かれた虫の姿など一切なく、ひたすらに虫から思い起こさせられる恐ろしさ、おぞましさが描かれていて、文字どおり読む人に虫酸を走らせる。

 覚えのない子を宿した挙げ句に、物語の上で大切な役割を果たすことになった瀬美は、人間よりも虫を可愛がる昆虫学者の両親を持ってしまった反動で、徹底した虫嫌いになっていて、そんな虫の怯える瀬美の目線を通して、料理に紛れ込む虫、人間を刺しに来る虫、死んだ動物の体を食い荒らす虫たちのおぞましさを描いて、読む人に恐怖感を与える。

 それだけならまだ、瀬美の個人的な主観と受け止められないこともない。けれども、オサマルが行く先々で見せる機会な振る舞いの結果起こる惨劇も、毒蛾にまみれて死ぬ人々があり、体内からおびただしい虫を吐き出して悶絶する人ありといった具合で、小さい体でありながら、集まり群れ蠢くことによって大きな人間たちを蹂躙し喰らい尽くす虫たちの恐ろしさが、これでもかといった筆致で描かれる。

 一方に神対悪魔という天地創造以来続く争いの様を描きつつ、それに重なるように人間対虫という地上に生息する生命体の覇権争いの様が描かれているのが興味深い。知性でもって地球を制覇しているように見える人間の、その実数でも力でも圧倒的に虫に負けているのではないのか、地球は本当は虫の星なのではないのか、といった疑念を読む人の頭に浮かべさせる。

 あるいは虫は宇宙からやって来た生命体で、地表の動物たちは相容れない存在なのだという説の真実味を覚えさせる。本編のクライマックスで描かれる、特撮映画もかくやと思わせるラストバトルのすさまじさを読むにつけ、なるほど虫は単なる虫ではなかったのかもしれないという思いにかられて呆然とする。

 だからといって、決して虫たちに覇権を譲ろうといった殊勝な気持ちになれないのは、虫たちの徹底して恐ろしくおぞましい描写があるからで、エピローグ部分での読めば分かるその世界の有り様なども勘案するに、この作者、やはり虫に生活の楽しさを奪われ激しい憎悪を抱いているのではないかと思えて仕方がない。台所に現れたゴキブリをはたいたら飛んで食べようとしていたサーロインステーキの上に落ちた、なんて経験があったら人間、誰だって虫なんでいなくなればいいと思うに違いない。

 そうでなくても読み終えた時に、虫についてある種の偏見が生まれるだろうことは確実な1冊。それがエピローグにあるような世界の創造を願うものなのか、瀬美の両親のような宇宙を2分する存在への畏敬にも似た気持ちなのかは人それぞれだろうけれど、願わくば夏の夜が安心して眠れ、めくった布団の下に黒光りした生き物を見ないですむ程度には、「蝿の王」には活動を自粛して頂きたいもの、である。


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