ばいおれんす☆まじかる!〜九重第二の魔法少女

 正義があれば悪があってテーゼがあればアンチテーゼがあって正論があれば反論がある、といった具合に世の中どんな分野にだって、さまざまな価値観が存在している。白か黒かといった単純な対立概念ばかりじゃなく、ズラしてみたりナナメから見てみたりパロってみたり脱構築してみたり皮肉ってみたりと、特定の価値観を変化させるパターンも実に多種多様。そんなパターンを次々を編み出す人間のたくましいばかりの想像力には、呆れながらもいささかの感慨を覚える。よーやるわ、といった感じの。

 いってしまえばもはや世の中、なにが出ようとなにが起ころうとすべてが想像の範囲内におさまってしまい、純粋無垢な驚きにはなかなか出会えずせいぜいが「よくやってくれたなあ」と同情混じりの賛意を示し、「ニタリ」とほくそ笑む程度の気持ちの揺れが起こるくらい。そしてそんな揺れも1度限りでバリエーションのカタログへと刻まれてしまい、感動の幅はますます狭めて行く。

 物語のヒロインのパターンも世の中にヒロインが生まれて以降、数えるのも困難なほどにさまざまなパターンが生まれ消費されて来たことは明白で、その意味でいうなら第5回角川学園小説大賞で優秀作を受賞した林トモアキの「ばいおれん☆すまじかる! 〜九重第二の魔法少女」(角川スニーカー文庫、514円)に登場するヒロインも、「これはやられた」という驚きよりは「こういうのもありだよな」といった追認的な感慨がまず浮かぶ。

 過去に似た例があったかなかったかはこの際関係ない。贅沢三昧のなかで感動を引き起こす回路が鈍感になってしまっている以上、よほどのものを持ってこられない限り(といってもヒロインが金さん銀さんだろうと女王陛下だろうと、多種多様なバリエーションの範疇にサンプルとしてからめ取られてしまうだけなのだが)とてつもない感動は起こらない。生きていくということはつまり、感動を削っていくことなのかもしれない。

 ただし、追認的な感慨であってもその度合いはさまざまで、なかには激しくゲージを揺らし、「やられたなあ」と脱帽を迫られるものもある。違いがあるとすればそれはたぶん、規格の外れ度合いの大きさと規格外れの存在の見せ方つまりは全体としての面白さにかかっている。SFでいうガジェットがたとえ新発明のものでなかったとしても、小説として面白ければそれは面白い作品として讃えられる。「ばいおれん☆すまじかる! 〜九重第二の魔法少女」の場合も、ヒロインの規格の外れ度合いのすさまじさ、とりわけヒロインにあるまじき卑怯度というゲージの突出具合が読む人の興味を高め、繰り広げられる物語のおかしさが、バリエーションの追認を越えてちょっとした感慨を引き起こした。

 主人公の与謝野緋奈は広域暴力団・関東与謝野組会の跡取り娘で、冒頭の人物紹介によれば「性格は直情的。頭より先に手が出るタイプ。武器は鞄に仕込んだ鉄板」というすさまじさ。「地球に現れた魔族を倒すため、神が遣わした天使(ただし落第生)」というミウルスが、魔族と戦い地球を守る魔法少女として緋奈を選んだところで「性格までは改善できなかった」のも仕方がないといえるだろう。

 緋奈が相手にする魔族とは、ひとりがエンベローペという魔女で、マッドサイエンティストのミスターBなる男を仲間に引き込んで、ロボットを作り地球を破滅させようと企んでいる。もうひとりがメリーサという魔女で、こちらは庶民(魔族にも階級はあるらしい)の出というエンベローペとは対称的に魔界の貴族、グレバディン家の跡取り娘で何故か義理人情に厚く、魔族ながらも正々堂々とした戦いを好む。といよりエンベローペも含めた魔族全体が、人間社会一般に流通している義理人情なり正義なりといった価値観にとらわれている節があって、これが後々緋奈との戦いにおいて大きな意味を持ってくる。

 ヒロインの実家がヤクザというのは赤川次郎の「セーラー服と機関銃」の昔からあって特段に珍しいものでもないし、意思に反して魔法少女に選ばれ変身させられてしまう設定時代も、これが男性のそれも中年おやじだったらいざしらず(「ヤングキング・アワーズ」にそうした設定の漫画が掲載されたことがあった。ビジュアル的には衝撃だった)、れっきとした美少女が選ばれている以上はビジュアル的にそれほどの違和感は覚えずにすむ。けれどもそれでも手にしたバトンで魔法を出すより先に殴りかかって行ったあたりで「あれ?」と思ったのも事実。加えて実家から持ち出した拳銃を手に敵と戦う魔法少女という構図には、決して小さくはないカルチャーショックを受けてしまった。

 それだけならまだまだバリエーションの範疇だが、「ばいおれん☆すまじかる! 〜九重第二の魔法少女」の場合はさらに幾つかのズラしに揺すぶりがあって、感慨のレベルを高められる。世界を滅ぼしに来た魔女の一味と戦う場面で緋奈が見せる数々の、魔法少女に相応しくない卑怯技を目の当たりにするにつけ、その勝利へのこだわりぶりに賛意を示しながらも、そこまでやるかといった感慨に胸がいっぱいになる。メリーサを退ける場面での戦いぶりといい、美形の魔人・エルシフを倒す場面での戦いぶりといい、有り体な”魔法少女=正義”といった図式をズラしひっくり返して「どうだ」「これでもか」とバリエーションの豊富さを突きつけて来る。

 卑怯な技を繰り出すシチュエーショへと至るまでへのキャラクターの心理的な葛藤や情景描写といったものがあまりなく、盛り上がるドラマのそれほどない中で唐突に事件が起こり、バトルが始まり敵が退散しすべてが解決していってしまう感じがあって、もう少し語り口を練り挙げた方が読んで主人公の卑怯度に一喜一憂できたかもしれないという気がしないでもない。また、一応は強大な敵として設定された、出自から来るルサンチマンをパワーに転化し頑張って来た魔女のエンベローペに関するドラマもそれほど読めず、感情移入がしづらかったのも気になる。

 ただ、唐突だからこそ際だつ卑怯なふるまいもある訳で、そのあたりの行為の出し入れにメリハリがつき、笑える場面では大いに笑え泣ける場面ではほろりと泣けるような組み立てがもっともっと出て来たなら、その規格外れの設定と相まって、極限までの感慨を与えてくれそうな予感がある。もしも書かれるのだとしたら続刊では、なにものにも優る「義理、仁義、愛……侠客としては、ほおっておけないだろ」と吐露する独特の価値観をバックに、傍目には邪悪で卑怯にも見える、けれども己の価値観の上ではいささかも矛盾していない技をあっけらかんと繰り出しては、敵をバタバタなぎ倒していくヒロインの痛快さを、もっともっと感じさせてくれたら嬉しい。


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