明日の狩りの詞の

 若い猟師が鳥獣を狩る岡本健太郎の漫画「山賊ダイアリー」であり、恐竜のような怪物を狩るゲームの「モンスターハンター」であり、ダンジョンに現れるモンスターを調理して食う九井諒子の漫画「ダンジョン飯」の宇宙生物版、とでも言えば当てはまるのだろうか。

 石川博品による「明日の狩りの詞の」(星海者FICTIONS、1350円)は、東京湾へと落ちてきた「隕石」によって、東京の中心部に外来宇宙生物が現れるようになって、人が住めなくなってしまった時代が舞台。とはいえ宇宙生物によって人類が蹂躙されるといったことはなく、都心部が高い壁によって完全閉鎖されているといったこもない。人々はフェンスで囲われた「封鎖区域」へと入っていっては、跋扈する外来宇宙生物をハンティングして楽しんでいる。

 どこかほんわかとしたシチュエーション。それというのも「隕石」の落下は、どうやらそこが人類の住処と知らず、あるいは知っても無視して狩猟の場を作ろうとしたヘロンの作為によるもので、お詫びとして地球には優れた文明が入ってきて、日常生活は少しばかり豊かになっていた。鷹見一幸による「宇宙軍士官学校」シリーズで、進んだ文明を持った宇宙人によって、地球文明がリフトアップされた状況に少し似ている。

 なおかつ「宇宙軍士官学校」とは違って、人類の存亡をかけた戦いが起こらないとあって、人類が微温的な空気に耽溺するのも仕方のない話しか。もちろん封鎖された地域に暮らしていた人たちは、住む場所を奪われたということでヘロンを憎んでいたりもする。やがてヘロンの技術が本格的に入ってくれば、地球の産業が影響を被る可能性も取りざたされている。

 主人公で、高校生の西山リョートにもヘロンへの複雑な感情や、未来へのぼんやりとした不安はあったものの、やがて訪れた1人のヘロンが「封鎖区域」に入って狩りをしたいと言ってきた時には、ともに行動することを決断する。

 それはヘロンへの憎しみよりも、狩猟への好奇心がリョートの場合は勝っていたからかもしれない。高校生でありながらも、誘われれば授業を抜け出し、大人たちと封鎖区域に入ってハンティングをしていたリョート。ただ狩るだけでなく、おじいちゃんの厳しい教えもあって、捕った宇宙生物は持ち帰って食うことを信条にしていたことも、狩りを快楽ではなく一種の“成長の儀式”としてとらえ、挑もうとしていたヘロンへのシンパシーを誘ったのかもしれない。

 そんな西山リョートと、ハンティング仲間の久根ククミという少女、そしてリョートがまだ幼いころからいっしょに暮らすようになっていた猟犬型ロボットのカイによる、日常的に行われる狩猟のエピソードがあり、そんな最中に美少女の姿をした2体のアンドロイドとの出会いもあり、ちょっとした大物を仕留めようとする冒険があってと、一種の狩猟小説のような雰囲気を味わえる。

 そうした展開に添えられるのが、長い狩猟生活の中で人類が育んできた、狩りに対する蘊蓄であったり、伝承であったりといったもの。日本に限らず世界中に伝わるそうした伝承が引き合いに出され、また狩猟にまつわる文化が提示されて、読むうちに文化人類学や民俗学といったものを学んでいける。

 もしも現実が舞台になっていたら、高校生が主人公になることは絶対になかっただろうし、マタギ対ヒグマとかいったシリアスさ、稲見一良のようなハードボイルドさに寄った物語になっていただろう。そこを、宇宙生物の到来という非現実の器を用意し、ある程度管理された状況の中で、少しばかり進んだ文明を使って行われる狩猟といった設定を持ち込むことによって、高校生による狩猟の物語を成り立たせた。アイデアの勝利だともいえる。

 世界には狩猟をただ狩ることとして楽しむ人たちもいるし、奪われた土地を取り戻すたために、ひたすら外来宇宙生物を殺しまくっている人たちもいる。リョートのように狩りを食料確保のための行為、生きるための手段ととらえて挑むことだけが正義なのか、それとも等しく狩猟は悪なのか、逆に善なのかは物語では問われない。それでも読むことで、狩りというものに自分が向かう時に、どういうスタンスを取るべきなのかを示唆されるような気がする。

 自分の手で狩らずに済んでいる僕たちは果たして幸せだろうか、それとも何か大切なことを置き忘れているのかについても、考えさせられる物語。とはいえ現実、手に銃を持って狩猟にいくのはまず不可能。だから読んで考えよう。僕たちは狩りに行くべきなのかを。そしてあの生き物はどう狩れば倒せるのかを。どう調理すればうまく食えるのかを。


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