アルカイダ壊滅作戦 テロリストを抹殺せよ!

 2001年9月11日の「米国同時多発テロ」に端を発した米軍によるアフガニスタン空爆と、それに続くテロリスト組織「アルカイダ」およびアフガンを実効支配する「タリバン」との戦争も、どうにか終結へとこぎ着けた。

 漏れ聞くところによれば、替え玉が射殺された間隙をぬって、チムール帝国が遺した水道の跡に逃げ込んだオサマ・ビンラディンも、最期には日本からはるばるたどり着いた「毎朝新聞」なる新聞社の記者との、テロは絶対悪かそれとも大義かを巡っての問答の果てに堪忍袋の尾を切らした模様。蛮族の酋長よろしく、愛用のカラシニコフならぬ山刀を手に持ち、記者を処刑しようとしたところを、絶妙のタイミングで踏み込んで来た米軍の機関銃によって撃ち抜かれ、水不足のアフガンにあってチムールの技術力の成果か、しっかり貯水できていたダムの破壊によって流れて落ちて来た水流にのまれ、消息不明になってしまった。

 それでも残っていたアルカイダ日本支部のメンバーによって、羽田を飛び立ってハワイへ向かおうとしていた旅客機機がハイジャックされ、国会でも首相官邸でもなく単なる出先機関に過ぎない虎ノ門にある米国大使館に突入されそうになったその瞬間。何故か乗り合わせていた某カルト教団の元教宣部長が立ち上がってハイジャックを阻止し、飛行機は無事、羽田空港へと着陸して、世界を揺るがせたテロとその後の混乱は、一応の終結を見た。

 だが忘れてはいけない、ウサマ・ビンラディンは死んでも第2、第3のビンラディンは必ずや誕生するだろう。現に今だってほら、テレビの向こうに髭面で長身のいかにもな男がカメラに向かって、あの凶悪さを秘めた微笑みを浮かべているではないか……。

 などと書くと、政治的な情勢とか経済的な動向を折り込んで、”ポスト同時多発テロ”の世界を予見させるシミュレーションにすらなっておらず、かといって英雄の大活躍といった。エンターテインメントにお約束の劇的な展開もない予想を連ね、いったい何が言いたいんだとお叱りの声も出て来そうだから断っておくと、この展開、草薙圭一郎という作家の、その名も「アルカイダ壊滅作戦 テロリストを抹殺せよ!」(コスミックインターナショナル、857円)という小説に書かれていることを、そのままなぞったに過ぎない。

 ラディンに替え玉がいても不思議はないけれど、テロをするような人間はムスリムではないと言われてキレるようなタマだとは、ラディンのことをなかなか思えない。「毎朝新聞」なる会社の社員が、ビンラディンと問答するようなシチュエーションも訪れるとは考えにくい。

 もちろん著者も、いわゆるシミュレーションノベルで巨匠と呼ばれる人だけあって、政治的、経済的、宗教的な事情については重々承知はしているだろうとは認識しちえる。それでも「今」という、テロが起こり戦争が始まって空爆が続いてはいるものの敵を壊滅するには至っていない、まさに「今」というタイミングをとらえ、事実と憶測を交えつつエンターテインメントとして、またメッセージ性を持った物語として読者に届けるには、すべてが解決した後では遅かったのだろう。

 これが完全なるフィクションを前提としたものだったら、鉄壁の情報網を誇る米国をしてなぜか「アルカイダ」の動勢が捕まえられず、挙げ句にテロを食らった悲劇の裏で、国家的な団結をいう御旗を得、同情も得て世界に新たな覇権を唱えるべく、米国は進んで行こうとしているんだ、という謀略史観的なシナリオを推測することは可能だっただろう。

 成功率99%のスナイパー、あるいは世界をまたにかけ時には宇宙へも出かけるロシアから愛を込められたスパイ、さらには女性には朴念仁ながら戦いに関してはミスリルでも一目おかれる凄腕の傭兵、それが難しければ黒豹1人が単身、アフガニスタンへと乗り込んでいって、敵を撹乱するなりせん滅する、超エンターテインメントに仕立てることだって朝飯前だった筈だろう。

 けれども、展開がスピーディーに進む情勢のなか、「今」という時点をつかまえ切り取って、持てる材料を最大限の腕前で料理しつつ、面白味のある展開にして小説として仕上げ、読者に楽しんでもらうためには、事態の上っ面だけをなぞらえたような展開であっても、採用せざるを得なかったのだろう。血気盛んで運も強いジャーナリストといった類型的なキャラクターを配置して、型どおりの展開で話を作ってしまう力技を見せたのも、すべてが「今」というタイミングを捉えるための妥協だったと思いたい。

 ただ、あまりにスピーディーな展開に、ある程度の余裕を持たせてあったはずの「今」が揺らいでいるのは想像外だったのかもしれない。現在米国中を震撼させている炭疸菌による死者や患者の発生を、テロではなかったらしいと言い切っている部分は、あまりに早い「今」の進展の中でいささか陳腐かしている感がある。

 どんなに急いだところで、原稿を書き、印刷し配送してから書店に並べる手間暇のかかる紙のメディアで出してしまったことが、この本の「旬」をちょっとだけずらしてしまった原因だろう。デイリーなアップデートも可能なネットメディアだったら、そして「今」のタイミングが合っていた「過去」だったら、ひとつの識見として関心を集めたかもしれない。

 なるほど急いだ成果はそれなりにあったけれど、急ぎ過ぎた挙げ句の見込み違いもすでに出始めてしまっている。とにかくもこうして本になって出てしまい、書店に並んでしまった以上は改変も後戻りもきかない。ある時期の「今」をあらわす本として、将来において内容を吟味した上で、「今」を書かなければいけない事態が訪れた時、それをどう書くかを考える「他山の石」にしていきたい。


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