伝記 ウォーホル パーティーのあとの孤独


 子供の頃に熱心に読んだ本は、「野口英世」と「エジソン」の伝記だった。ハンディを背負ったまま成長し、そのハンディを克服して、すばらしい発見や発明を成し遂げた偉人の生涯に、驚き感動し、いつか彼らのような偉人になってみせると、強く心に誓ったはずだった。

 しかしいつしか、状況にまるめこまれる術を覚え、状況に流される安楽さに溺れたまま、偉人にはほど遠い人生を過ごしている。偉人と呼ばれた人たちが、実はひどく独善的であったりわがままであったという、醜い部分を知って、それをことさらに強調し、偉人になんかならなくたっていいと、自分を納得させてしまっている。

 子供にとって伝記は、夢と勇気と希望を与えてくれる啓蒙の書だ。子供はそこから人生の目標を見出し、目標に向かって突き進む熱意を学びとり、目標を達成した時に得られる栄誉のすばらしさを感じとる。だが大人になって読む伝記は、純粋な啓蒙とは大きく隔たった、ある種の打算を抱きながら読む啓発の書に堕している。

 そこから学びとるのはビジネスの成功物語であり、金儲けの方法であり、成功によって得られる富のすばらしさへの嫉妬心。わくわくしながらページをめくった子供の時代はもはや帰らず、今ではどんな伝記を読んでいても、感動もするが呆れもするし、わくわくするが退屈も覚える、はなはだ嫌みな読書家になってしまった。

 だが、そんなひねくれた本読みを、久しぶりに、ただ純粋にわくわくさせてくれる伝記が登場した。フレッド・ローレンス・ガイルズによるアンディ・ウォーホルの伝記「伝記 ウォーホル パーティーのあとの孤独」(文藝春秋、3800円)は、取り上げた人物も魅力的なら、その人物を描き出す作者の筆致もまた素晴らしい。

 驚くべき才能をもちながら、そのじつ恥ずかしがりやではにかみやで、絶えず人との交わりを求めつつも、結局家族をのぞいては心底理解しあえる友人に出会えなかった孤高のアーティスト、アンディ・ウォーホルの生涯を、多くの人々に取材し、多くの書物から例を取り、それら多くのエピソードを簡潔に、かつ明瞭に描いている。

 読む人の打算が入り込む隙などまるでない。500ページ近い大著が、あっというまに100ページ、200ページと読み継がれ、そこから人は、あふれかえる光の中心で、ひとり闇に包まれたまま生涯を終えた男の、染み出るような寂しい気持ちを感じとる。

 カーネギー工科大学でともに学び、ニューヨークにもいっしょに出たフィリップ・パールスタインに始まって、俳優のチャールズ・ライデル、アンディがシリアス・アートで成功を収めるきっかけを作ったエミール・デ・アントニオ、メトロポリタン美術館のキュレーターだったヘンリー・ゲルツァーラー、アンディの映画製作を仕切ったポール・モリッシー、アンディの身の回りの世話をした伴侶ともいえる青年のジェド・ジョンソン、さらには1年に満たないアンディとの関係で伝説にまでなった女性イーディ・セジウィック、アンディが熱烈に支持したバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」等々。

 まだまだ挙げれば際限なく続く、男と女とドラッグ・クイーンたちが、アンディ・ウォーホルの生涯を彩っている。だがその色は、毒々しいまでに散らばった原色の数々であるか、沈み込むような暗い単色であるかのどちらかで、アンディの初期のコマーシャル・アートに見られるような、暖かさに満ちた柔らかい色使いとは著しく隔たっている。

 生来の優しさ故に傷つきたくない、そして誰も傷つけたくない男が選んだ道は、ただひたすら無関心を通し、孤高のままに人生を終えることだった。貧乏だったけど才能にあふれ、打算なく人々とつき合えた学生時代を、有名になり金持ちになり、打算に満ちた人々が周囲に集まるようになった大人のアンディは、どのように思っていたのだろうか。

 その心を探る術はもはやない。しかし、打算に満ちた人々が残す記録ではなく、純粋に、ひたすら純粋にアンディの生涯を追ったガイルズの手になる伝記を得た今、その文章の隙間から、固く閉ざされた孤高のアーティストの心を、ほんの少しだけのぞくことができたような気がする。


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