アムステルダム
Amsterdam

 自動精算機では使えない5000円冊を改札窓口に差し出して乗り越し分を申請し、戻ってきた4000円を受け取って残りの小銭をもらおうと待っていたら「もう行って良いよ」と言われた。「小銭がまだだ」と言ったら「もう渡しただろう」と返され、「そんな筈はない」と強く訴えたら重ねて「ちゃんと渡した」と言われてしまった。

 そんな1分も経っていない前のことを忘れる筈があるものか、と確信しつつもふっと浮かんだ不安にかられてポケットに手を入れたら、さっきは無かった500円玉ほか小銭が数枚手に触れた。最初に小銭を受け取ってポケットに突っ込んでおいたにも関わらず、まったく記憶に止まっていなかった事実にその場を照れ笑いで逃げ出したが、数歩行ったところで突然ビクリと恐怖が背筋を走った。

 「老人力」とポジティブにそんな失態を捉える向きも確かにあろう。けれどもまだまだ老け込む年齢ではないと認識し、また立場も地位もそれなりに得ている人間にとって、「老人力」は己が尊厳を根底から揺るがせる現象だ。世界が崩れ尊厳が失われていく様を今は想像して不安にかられ、やがてそんな不安すら不安として認識できなくなる時が来ると考え、なおいっそうの不安が心を激しく苛む。

 ましてや美しく聡明で誰もが魅了された美女、モリー・レインが自覚症状の現れからそう時を置かずして一気に記憶と知力を後退させ、死んでしまった。若い頃、モリーとつき合ったことのある2人の男たちにとって、その激変は重ねた自らの年齢と、それに比例して高みへと達した地位、得た名誉、それらを包含した人間としての尊厳に強い衝撃を与えた。

 うち1人、作曲家として英国を代表するまでに上り詰めたクライヴは、彼女が感じた手の痺れという自覚症状を自らにも覚えて戦慄する。クライブは友人で、モリーとも交際歴のあるヴァーノンを読んで自分がモリーのようになったら、英国では認められてはいない安楽死を選べる国に連れていってくれないかと頼んだ。

 だが高級紙にこだわるばかりに落ち目となっている新聞社で編集局長を務めるヴァーノンは、モリーの夫のジェレミーからやはりモリーと付き合いのあった外務大臣ガーモニーが写った3枚の写真を持ち込まれ、これを新聞の起死回生、ひっては自らの栄達の材料に使おうと上の空でクライヴの申し出を聞き入れ、「君も同じようにしてくれること」と書いたメモをクライヴの家の戸口に挟んで伝えただけだった。

 作曲家として頂点を極めたと言ってもよいクライヴが、自らの尊厳に大いなる脅威を感じているにも関わらず、そっけない態度をとったヴァーノンの気持ちにささくれを覚えたことから、モリーを挟んで何十年も友人関係を続けていたクライヴとヴァーノンの間に亀裂が生じる。ヴァーノンはセンセーショナルを巻き起こし、ガーモニーの首相就任を阻止できると躍起になって写真の掲載を進めようとするが、クライヴは個人の性癖が国家の命運を左右するものではない以上、どうして新聞が追究する必要があるかと反対する。一方でヴァーノンは、浮かんだ天啓を失いたくなかったクライブが、山で見かけた男に襲われていた女性を救わなかったことを非難して、クライブの作曲活動の邪魔をする。

 物語は編集局長としての地位、作曲家としての名誉に関わる2人の対決へと発展して終わる。イアン・マキューアンがどうしてその小説に「アムステルダム」(小山太一訳、新潮社、1800円)というタイトルを付けたかの理由も、モリーの死の原因に関わる伏線から明らかになる。その結末は、モリーを襲った人間としての尊厳に対する脅威からの積極的逃避という、取りようによっては必然とも思える理由ではなく、名誉の失墜であり権威の崩壊といった下らない理由での破滅が提示される。

 絶望の頂点での死はその絶望を受け入れる心が存在する。人間としての尊厳を失った果ての死は客観的にはともかく主観的には絶望も不安もない、というよりそうした知覚が存在しない。傍目には残酷に映るモリーの死も、当人にとっては或いは幸せの絶頂での死だったのかもしれない。そう認めると、良い歳をした男たちの行動が逆に滑稽な、偽善とも足掻きとも思えて来るから不思議なもの。堂々と「老人力」を受け入れ果ての来る恍惚に浸ってみたい欲望も生まれて来るだろう。

 釣り銭を受け取ったことを忘れていたことを自覚し、恥じて恐怖を覚えることできる今は、そこまでの達観には流石に至れない。むしろ金銭的な安寧であり地位であり名誉といった、現代社会に暮らす人間であるが故に持つ下らない価値が失われることを恐怖する。同時に下らない人間でしかないんだと自己嫌悪にかられる。

 それでも仕方がないとすれば、改札口で確信を持って「釣り銭をもらってない」と言える日が来ることを願う。不安を超えた恍惚に身を委ねる誘惑に駆られる。「アムステルダム」なんて行くももか。


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