A・JAP・N!
あ・じゃ・ぱん


 いま16歳の高校生が生まれたのは1981年。元号が「平成」になったのは確か1989年の1月だから、彼女ら彼らが小学校1年生の冬に、時代が”大転換”したってことになる。以来もうすぐ9年。つまり今の高校生のほとんどが、「昭和」より「平成」って時代を長く生きていることになる。

 そんな彼たち彼女たちにしてみれば、「昭和」なんて過去ですらない。ろくすっぽ記憶もないんだから。そんな目には「昭和」の名残を思い出したり懐かしんだり毛嫌いしたり忘れようとするおじさんやおばさんって、いったいどんな風に映っているんだろう。羨ましいんだろうか。気持ち悪いんだろうか。やっぱ「関心ない」って答えが大半を占めるんだろう。だから矢作俊彦の「あ・じゃ・ぱん」(新潮社、上2400円、下2800円)を読んだって、喜びもしなけりゃ怒りも泣きもしないだろう。もったいないって思う? こっちだって「関心ない」。僕たちは僕たちの思い出に浸り、彼らや彼女らは大人になって老人になって「平成」という時代を思い出して、喜び怒り哀しみ楽しめばいい。断絶してしまった時代の、それが宿命ってやつだ。

 舞台は日本。でもちょっと違う。欧米を相手に戦争を起こして敗れ去ったまではいっしょだけど、よくあるSFのように日本は東経139度から真っ二つに分断されて、方やソ連の東日本、こなた米国の西日本と分割統治されてしまったから大変だ。持ち前のバイタリティーで西日本の、というか大阪人たちの気づき上げた戦後の西日本の日本(ああややこしい)は、商売も盛んにやがて世界へと市場を広げて有数の金満国へと発展していき、いっぽう東日本の日本は、どこかの分断国家の東とか北が辿ったように、統制経済のもので貧困を極めこそしなかったものの決して西に匹敵するとはいえない、ゆっくりとした発展をとげた。

 ここに現れたのがCNNの特派員。日本への赴任を求められたその理由は、分断の後に東京から京都へと移り住んだ天皇が、「昭和」という時代を残して世を去る一大事が起こったからに他ならない。分断されながらもいずれなんらかの影響を、西と東の日本に及ぼしていた天皇の死が、果たして両国にどんな影響を引き起こすのか。果たして皇居蛤御門に東日本のゲリラを率いる老人が現れ、特派員は彼へのインタビューを命じられた。その名前は。「田中角栄」。

 進駐軍に残る「ハナコさん」伝説にまつわる、主人公の特派員の出生の秘密を一方の軸に、山深き新潟の山村で農業に精出すかたわらで、東日本と西日本に強大な影響力の網を張っている田中角栄が夢みる日本の姿を辿る物語をもう一方の軸として、サスペンスあり、コメディイありの大長編のその果てに、現実の日本が「昭和」という時代に経験をしたさまざまな事柄が、よりグロテスクな姿となって読者の眼前に屹立する。

 永遠に美しい京都の料亭の女将の正体は。田中角栄の元で革命を目指す壮士・平岡の真の目的とは。関西弁で受け答えをする西日本の吉本首相は、大阪人なら笑いなしでは読めない描写。ライシャワーにルーズベルトにヘミングウエイにバーナード・ショウと、登場する外国人もだ有名人の大盤振舞だ。進駐軍でもいい、安保闘争でもいい、ベトナム戦争でもいい、全共闘でもいい、ロッキード事件でもいい、漫才ブームでもいいから「昭和」をその身に染み着くくらい、強く深く経験してきた人たちならば、小説に描かれたもう1つの「昭和」の姿から、現実にありえたかもしれない「日本」の姿を見い出して、喜ぶか、怒るか、哀しむか、楽しむかするだろう。

 いささかの共通体験ももたない「平成」に生きる子供たちに、無理に読めとはいえないし、多分読みたいとも思わないだろうけど、いささかなりとも「昭和」の記憶を持った20代なら、「昭和」が何をなしえたのか、そして何をなしえなかったのかを推し量る”史料”として、是非とも「あ・じゃ・ぱん」を手にとって欲しい。おばさんたち、おじさんたちはあまりにも「昭和」を知りすぎていて、懐かしむとか否定するとか、とにかく主観的にしかその時代を振り返れない。

 だから提案したい。データハウスでも第三書館でも構わないから、『「あ・じゃ・ぱん」の秘密』を早急に出版せよと。歴史と宗教と心理学のガジェットを折り込み練り上げた作品を、懸命になって解きほぐそうとするだけの気概に満ちた世代だ。上の世代には懐古であったり諧謔であったりする話からも、「昭和」という時代を冷静に理解し、賢明な答えを導き出してくれるはずだろうから。


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