1000の小説とバックベアード

 何故書くのか。誰の為に書くのか。書くことを生業にしている者たちにとってそれは、常に付きまとう問題だ。

 とりわけ小説家と呼ばれる人たちは、情報を伝えるために書く新聞記者のような物書きたちとは違って、誰かに書く物を求められている訳ではない。けれどもそれで書くのを止める小説家などいない。書き続ける。

 だからこそ浮かぶ。何故書くのか。誰の為に書くのかという疑問が。佐藤友哉の「1000の小説とバックベアード」(新潮社、1500円)が問い、そして答へと迫るのが、まさしく小説家にとって究極にして絶対とも言える「何故書くのか」「誰の為に書くのか」という命題だ。

 その世界には、小説を書く小説家という人種も確かに存在する。才能の持ち主だと讃えられ、志望者たちから憧れられる。けれども未だ小説を書けない、または小説を書く才能のない人たちは、片説家となって書く衝動を満たしている。

 誰かからの依頼を受け、アイディアをひねり出し、ストーリーを組み立て物語を作るのが片説家という職業。主人公の木原は、「ティエン・トゥ・バット」という片説家たちが集う事務所で働いていた。試験を受けて合格し、4年ほど働いていたある日、社長の水口から突然解雇を言い渡される。

 名目は「方向性の違い」。けれども心当たりがない。そもそも依頼された物を書く片説家に方向性などない。それなのに解雇された。打ちひしがれてアパート帰って求人サイトを検索しようとして気がついた。文字が書けなくなっていた。もはやこれまで。そう絶望していた木原をひとりの女性が訪ねてくる。

 配川ゆかりと名乗った女性は、木原に向かい幾らでも払うから小説を書いて欲しいと頼む。あわせて失踪た妹が最後に読んだだろう、木原が勤めていた「ティエン・トゥ・バット」で書かれたらしい片説を探して、読ませて欲しいとも言う。

 小説を書いて欲しいというのは単なる賄賂か。そう問うと配川ゆかりは違うと言い、書けないなら書けないと口にすれば良いと叱る。反省して木原は配川ゆかりの依頼を受け入れ、小説を書き始める。一方でゆかりの妹の配川つたえが読んだという片説を追うよう、知人の探偵に頼みに行く。

 そして始まる物語で示されるのが、世の中には1000のスタンダードな小説がすでにあって、それらが置き換わることは滅多にないのだという、傑作を目指す小説家にとって絶望的な事実。けれどもからといって書くのを諦めるの小説家などいないのもまた真実。書きたい物があるから書く。それが小説家なのだ。

 たとえ歴史に名前が残らなくても構わない。誰か読者がひとりでもいれば書く。読者がいなくても、書くことによってのみ小説家は小説家たりえるのだ。と、そんな桃源の境地へと至り、解脱する道が物語の中に描かれている。

 クライマックスへと続く道はストレート。不条理な展開に翻弄されることはないし、不合理な主張に悩まされることもない。淡々とした展開の中に違和感なく溶け込んでいて、読む者たちを解脱の道へと誘う。

 不思議な部分はあるにはあって、バック・ベアードなる「ゲゲゲの鬼太郎」に出てきた妖怪の王様の名を借りた人物が現れ、木原のことを小説から見放された失格者だと断じ、世界から隔絶された図書館へと閉じこめる。それも冒険と成長の物語では書かせない試練だと、認めれば不思議さを不合理と感じることもない。

 まさしく木原は図書館で試練を乗り越え、書く必然に目覚め、前から収容されていた絵本を勝手に自作してしまった少女や、かつて小説家として人気を得ながら書けなくなり、模倣を繰り返していた女性の示唆を受け協力を得て、図書館を逃げ出す。配川ゆかりと再開し、小説を書く決意を改めて固めて配川つたえをさらった「日本文学」なる存在へと会うために、南洋へと赴きそこでひとつの答えを得る。

 歪んだ情念の奔流もなく乾いた妄念の暴走もない。何故書くのか。誰の為に書くのか。そんな問いを貪欲なまでに追求していくストーリーは単純と言えば単純で、娯楽性にも富んでいて、著者の抱く情念と妄念にあふれた私小説的とも言えそうな過去の作品のように、リアルとバーチャルのはざまに引き込まれ弄ばれることもない。その辺りを物足りないと感じる人もいるかもしれない。

 しかし、情念と妄念に溢れていたよで、実は自覚的に小説を書き記して来たのが佐藤友哉だ。死体や密室や妹といった記号を散りばめ、青春に痛んだ心の叫びらしきものを混ぜ入れ、同時代の書き手であり代弁者であるとの期待を浴びたその背後で、小説とはなにかを考え、小説とはこれかもしれないと言葉を連ね、架空の世界を構築してみせた。

 その実験の集大成が「1000の小説とバックベアード」。だからあくまで書かれているのは仮構の世界。主人公と同様に小説家になろうとして迷っていた女性との、出会いとそして結託は、佐藤友哉自身の小説家としての立場と、自身の生活への意識が反映されたものだという印象がないでもないが、それすらも煙幕に使って小説とは、小説家とは何かを徹底的に探求する。

 似た小説としては、アイドル的な立場を逆手にとってアイドルの盛衰を描いた綿矢りさの「夢を与える」が浮かぶ。最年少での芥川賞受賞なり、誰もが行為を抱く容貌なりといった、巷間に流布する圧倒的な情報量を背景にして、もはや当人を抜きに語られることを拒絶している節が「夢を与える」にはある。

 これと比べれば、プロフィルが一般にさほど知られているとは言えない佐藤友哉。その意味からも、「1000の小説とバックベアード」を作者と重ねて見るのではなく、1つの独立した、そして純粋な「小説による小説のための小説」として、ここは受け止め読み手はひたすら純粋に、書くことの意味、書くことの目的を考えれば良い。


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