多和田葉子作品のページ


1960年東京都生、早稲田大学第一文学部ロシア文学専修卒。82年からドイツのハンブルク、2006年からベルリン在住。ハンブルク大学大学院修士課程およびチューリヒ大学大学院博士課程修了。
91年「かかとを失くして」にて第34回群像新人賞、93年「犬婿入り」にて 第108回芥川賞、2000年「ヒナギクのお茶の場合」にて第28回泉鏡花文学賞、02年「球形時間」にてドゥマゴ文学賞、03年「容疑者の夜行列車」にて谷崎潤一郎賞および伊藤整文学賞、09年坪内逍遥大賞、11年「尼僧とキューピッドの弓」にて紫式部文学賞、同年「雪の練習生」にて第64回野間文芸賞、13年「雲をつかむ話」にて第64回読売文学賞および第63回芸術選奨文部科学大臣賞、18年「献灯使」英語版にて全米図書賞(翻訳部門)、18年国際交流基金賞、20年に2019年度朝日賞、20年紫綬褒章、23年「太陽諸島」にて第77回毎日出版文化賞、24年第80回日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。
ドイツでは87年に詩集にてデビュー。96年ドイツでの作家活動によりシャミッソー賞、05年ゲーテ・メダル賞、16年クライスト賞、25年ネリー・ザックス文学賞を受賞。 


1.
球形時間

2.海に落とした名前

3.尼僧とキューピッドの弓

4.雪の練習生

5.雲をつかむ話

6.献灯使

7.百年の散歩  

8.研修生 

 


     

1.

●「球形時間」● 


球形時間画像

2002年06月
新潮社刊
(1500円+税)


2002/11/12


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ストーリィがきちんと掴めないまま読み進んでいたら、いつのまにか終りまで来てしまった、というのが正直な感想。
とくに最後の展開が理解できず、何もかも判らないまま読み終わってしまった、というのが事実です。

主人公は、高校生サヤ、同級生カツオ、さらに担任教師のソノダヤスオ、そしてちょっと不気味な気配ある同級生ナミコ
サヤが喫茶店で出会った英国女性は、19世紀に日本奥地の紀行を書き残したイザベラ・バードであり、カツオが知り合った大学生は、異様に太陽を崇拝する青年。
最初はそれなりに普通の高校生を主人公とするストーリィと思ったのですが、次第に時空、想念の中に、主人公達の日常が空転していくような感覚にとらわれます。

題名の“球形時間”とは、現実における「休憩」の時を表すようであり、球形の中に閉じ込められた時間をさすようでもあります。
その雰囲気を、とても言葉で表すことはできません。
ファンタジーでもなく、とにかく不思議な感覚のストーリィ。

  

2.

●「海に落とした名前」● 


海に落とした名前画像

2006年11月
新潮社刊
(1500円+税)



2006/12/19



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以前に読んだ球形時間もそうでしたし、結局本書もそうなのですが、もうひとつピンと来ず。相性が良くない所為なのか、それとも私の感性が貧弱なだけなのかと、こんな時はふと弱気になってしまいがち。
名前を海に落とした、残されたのはレシートのみ、という紹介文に惹かれて読み始めたものの撃沈か。
どこへ繋がっていくのか、繋がっていくものがそもそもあるのかないのか、それすら判らないことが戸惑う理由。

「時差」はベルリン、ニューヨーク、東京と離れたところにいる同性愛者、三角関係にあると読み手からは判る3人の男性を同時並行的に描いた作品。離れた場所にいても同じ時間、同じ行為をすることによって繋がりを確認したいという一方に対し、しなくたって相手には判らないともう一方は思う、そのズレに少々笑いがこみ上げます。
「サハリン」は、サハリン、次いでニューヨークと旅する主人公の話。度々次の描写に係る選択肢が併記され、創作ノートのような篇。
「土木計画」は社長業を辞めて老いた愛猫の最期を看取る女性の話。老母のことかと思い恐ろしげな気配を覚えましたが、猫のことと判ってホッ。
さて肝心の表題作、「海に落とした名前」。レシートを眺めたって、そう自分が誰かなどと判るものではありません。その不条理さに合わせるかのように、主人公に強引に迫ってくる兄妹も不条理な存在。どう展開するのかと期待していたら、どうにも展開されないというオチを感じてしまいました。

時差/U.S.+S.R. 極東欧のサウナ/土木計画/海に落とした名前

  

3.

「尼僧とキューピッドの弓」 ★★        紫式部文学賞


尼僧とキューピッドの弓画像

2010年07月
講談社

(1600円+税)



2010/08/19



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ドイツのW市にある女子修道院。そこを日本の女性小説家が訪れる、というところから始まるストーリィ。
この修道院が、一般的な修道院のイメージとかけ離れているところが面白い。過去にカトリックからプロテスタントに切り替わったという経緯があったからかもしれませんが、まるで老女たちのグループホームといった様子なのです。

小説家を迎えた尼僧院長代理が、「文化財保護が目的であって布教が目的ではない」と言い放つところに、それが象徴されています。
子供も成人した後の老後を静かに過ごせる場所を求める需要と、文化財である修道院を維持していくために住んでもらいたいという供給が一致した、というところです。
学生時代に読んだフックス「風俗の歴史」で、修道院というのはそもそも信仰が第一目的ではなく、貧しい者たちが共同生活を営むことによってそれを凌ぐことが目的だったという説明を読んだ覚えがあります。それからすると、この修道院の有り様は至極当然なのかも。

もっともそれはストーリィの主筋ではありません。
この修道院に住む女性たち、本質はグループホームという故か、考え方も様々であれば、意見を同じくしたり異にしたりと、人間関係も実社会そのままです。共通するのは、小説家を自室に積極的に招いて語りたがるところ。その辺りが本作品の面白さです。
本書題名にある「尼僧」「キューピッド」「弓」、それらがどう関わるのか、次第に明らかにされていきます。
小説家の受け入れを応諾した尼僧院長が不在の訳は、どうも駆け落ちしたらしいと判る。
その尼僧院長を主人公にして、その経緯を当事者の内面から描いたのが第二部の「翼のない矢」
官能と修道院、その関わり、その対比もまた面白い。

1.遠方からの客/2.翼のない矢

          

4.

「雪の練習生」 ★★☆         野間文芸賞


雪の練習生画像

2011年01月
新潮社

(1700円+税)

2013年12月
新潮文庫



2011/02/27



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人間社会で生きる白クマ、祖母・母・子の三代にわたる年代記。

動物を擬人化し主人公にした小説作品は結構あると思うのですが、殆どは人間に近い存在の動物たちでしょう。
その点、白クマいうのは珍しい筈。
本作品、珍しいということはさりながら、小説として面白いのです。何処がと問われても答えるのに窮するのですが、理由なしにとにかく面白い。
まず
「祖母の退化論」は、祖母となるクマ=「わたし」の第一人称による章。この「わたし」が凄い。事務処理能力に長け、自伝を書き出し、それがソ連国内だけでなく西欧社会でも評判となります。その関係で西側に亡命まで。
「死の接吻」は一転、語り手はサーカスで働くウルズラという女性。トスカはウルズラと組んで、後に世界中で評判となる芸を生み出すというストーリィ。
そして
「北極を想う日」は三代目、人間の手で育てられたクヌートが語り手となる章。
最初は人間の会議にも出席していた白クマが、代を追う毎にサーカス、動物園と成り下がっていく展開には、氷のような冷たさを感じます。

人間の社会で人間と共に生き、その言葉を理解する3代のクマですが、どこかで人間と相容れない部分を持っています。
それは北極海を故郷とし、孤高に生きるその性質故でしょうか。彼らには、人間と自らを冷静に眺める、人間にはない怜悧な美しさが感じられます。そこが、本作品の底深い魅力。

※この
クヌート、架空の存在ではなく、母クマ=トスカの育児拒否によりベルリンの動物園で保育器・哺乳瓶で育てられた実在の白クマの赤ちゃんで、映画にもなった有名な子クマ。
そのニュースを見ながら本書を読むと、リアルな物語のようにに感じられます。

 
祖母の退化論/死の接吻/北極を想う日

              

5.

「雲をつかむ話」 ★★       読売文学賞・芸術選奨文部科学大臣賞


雲をつかむ話画像

2012年04月
講談社

(1600円+税)


2012/05/21


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多和田さんの小説はどうもストーリィを捉えがたい、というのは私の一環とした印象です。本書もまたそんな作品。
「雲をつかむ話」という表題は、「雲をつかむ」に似た内容のストーリィと言うべきなのかもしれませんが、ストーリィ自体まるで雲をつかむよう、とも感じてしまう一冊。

主人公はごく普通の女性らしいのですが、主人公が刊行したばかりの本をプレゼント用に買いたいという青年が現れたと思ったら、実は殺人を犯して逃走中、一時姿を隠すためだったと知る。
それを皮切りにして、犯罪者と様々に出会うことになります。
罪を犯したからと言って、別人になる訳ではない。犯罪者だからといって特別な人間である、という訳ではない。
それでも犯人と出遭った胸躍る話はみんなにきかせたくなる、と。

ほんとうに雲をつかむような話なのです。いったい主人公はどういった人物なのか。それすら判然としないままなのですから。
それでも犯罪話には常に興味津々ですし、最後、元大学時代のルームメイトだったという
紅田マヤ2人の間に起きた事件は面白い。いったいどちらに問題があったのか、どっちもどっちだったのか。
よく判らないままであっても、何となく面白い、と言う他ありません。

      

6.

「献灯使」 ★★       全米図書賞(翻訳部門)


献灯使画像

2014年10月
講談社

(1600円+税)

2017年08月
講談社文庫



2014/12/13



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中編「献灯使」+短編4篇。
いずれも、原発事故等で荒廃した日本を中心とした近未来ストーリィ。
「献灯使」では、原発事故等の結果日本は鎖国し(放射能汚染を恐れる諸外国からシャットアウトされたという面もあり)、老人たちが元気な一方で、若い世代ほど虚弱になっているという設定です。
活動家の妻とは別居、沖縄へ避難移住した娘夫婦らから取り残された老人=
義郎は、本土に留まる他なかった曾孫=無名の世話しながら生活しています。
そして最後、海外に向けた使者=
“献灯使”の候補として、無名が選ばれることになります。果たして日本に未だ、希望は残されているのでしょうか。

高齢者程元気な近未来の日本社会、筒井康隆さん辺りが描けばブラックユーモアと感じるところですが、多和田さんによってこのように描かれると、決して非現実的な話とばかりは言っていられない、と怖くなります。
原発事故当時「想定外」という言葉がよく使われましたが、想定外とは単に想定しなかったという意味だけであって、起きないということではないということを改めてガツンと頭に食らわされた思いです。
さて明日は衆院議員選、日本がどんな方向へ向かおうとする結果になるのか、些か懸念を感じます。

「韋駄天どこまでも」は、先に岸本佐知子編「変愛小説集−日本作家編−に収録されていて、既読の篇。
「不死の島」は、国際的に情報が閉じられて国内の様子が全く判らなくなった母国を、海外に住む日本人の目から懸念した篇。
「彼岸」は、「献灯使」より前の段階、日本から海外に脱出しようとする姿を描いた篇。
「動物たちのバベル」

献灯使/韋駄天どこまでも/不死の島/彼岸/動物たちのバベル

          

7.

「百年の散歩 ★☆


百年の散歩

2017年03月
新潮社

(1700円+税)

2020年01月
新潮文庫



2017/04/24



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歴史上著名な人物の名前を付けられた、ベルリンの通り等を歩き回る10のストーリィ。
主人公となっている人物が「あの人」と待ち合わせしているようなのですが、その人と落ち合うことはできないまま。そして主人公の性別も明らかではありませんし、相手がどんな人物であるかもまるで明らかにされません。

散策するスケッチ的なストーリィかと思うと、それはどんどん変化していきます。
現在の中で通りを歩き回っている筈なのに、出会った相手は過去の人物が登場するかと思えば、過去と現在と未来が自在に入れ替わり、こうしたストーリィなんだという確かなものは中々得られません。

そもそもベルリンという街が曲者なのではないか。
歴史的人物の名前を通りに残すほど国際的な都市であり、ナチスドイツ時代の首都であり、戦後は東西ベルリンという壁を持ち、統一ドイツの首都に返り咲いたという、大きな歴史上の変遷の舞台となった街。
ふと記憶の中に紛れ込んでしまえば、過去の混迷に巻き込まれてしまうのも不思議ではないように感じます。

ただ、私として今ひとつだったのは、ベルリンという街のイメージがどうしても掴めなかったこと。
実際に訪れたことがなくても何かの縁でこうした街だというイメージを持ってさえいれば、実際に主人公と一緒に散策する気分になってストーリィを実感できたのではないかと思うのですが、歴史的変遷の知識だけで街のイメージをまるで掴んでいなかったことが大きかったようです。

※比べるものではありませんが、森見登美彦作品における京都の街めぐりは奇想天外でも何となくイメージが掴めていたなァ。


カント通り/カール・マルクス通り/マルティン・ルター通り/レネー・シンテニス広場/ローザ・ルクセンブルク通り/プーシキン並木通り/リヒャルト・ワーグナー通り/コルヴィッツ通り/トゥホルスキー通り/マヤコフスキーリング

                 

8.
「研修生 プラクティカンティノ ★★☆


研修生

2025年10月
中央公論新社

(2700円+税)



2025/11/13



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1980年代、大学を卒業した22歳の主人公は、インド、ローマ等への旅行を経てドイツ第二の都市ハンブルグへ。

主人公が研修生として働くことになったのは、洋書輸入販売の書店を営んでいる父親の取引先である、現地の書籍取次会社。
多和田さんの経歴と重なる処がありますので、ご自身の体験を基にしたフィクションなのだろうと思います。

その会社でいろいろな部署に異動しながら、その会社で働く様々な人と語らい、日本とは違う働きぶりを知ります。
また、会社の外では家主の女性といろいろ食い違う一方、奈良のユースホステルで出会っただけの女性=
マグダレーナと再会し、その一家に入り込む、という日々を過ごしていきます。

ドイツ語が流暢な訳ではなく、文化や考え方の違いは大きい。
ありきたりな感想になりますが、外国で暮らすことの苦労を改めて教えられる気がします。
とはいえ、日本に帰りたいというような気持ちが語られることがなかったのは、それだけ現地に入り込んでいたのだろうと思います。

もう一つ強く感じたのは、現代と1980年代という時代の違い。
なにしろ携帯電話、スマホがない時代ですから、連絡を取り合ったり情報共有することが簡単ではない。それら様々なことに驚きと、むしろ新鮮ささえ感じます。
機械を通さないその分、人間関係はより濃密であったように感じられますから。

また、この海外暮らしの経験は、自分という人間を生み出すために必要な日々だったのではないでしょうか。

主人公の経験から学ぶこと、考えさせられることは多。
頁数 500余とかなり分厚い作品ですが、日々の積み重ねの結果ですから、その長さは苦にならず、胸の中にしっかりその記憶を残してくれるような気がします。お薦め。

   


   

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