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1.ここはとても速い川 2.この世の喜びよ 3.共に明るい 4.無形 |
「ここはとても速い川」 ★★ 野間文芸新人賞 | |
2022年12月 2021/07/11 |
「ここはとても速い川」 児童養護施設で暮らす、小学五年生の集。 彼の楽しみは、1歳下の女子ひじりと、近くの淀川にいる亀を見に行くこと。 集たちの送る日々と心模様が細やかに描き出している中篇。 子どもの心は単純と思われがちですが、大人と変わらず、場合によっては大人よりもっと深く、繊細なのかもしれないと感じさせられます。 「膨張」 小説第一作、とのこと。 “アドレスホッパー”の一人である女性=津高あんりが主人公。 以前こうした人たちがいることはニュースで知っていましたが、この言葉自体は認識していませんでした。 アドレスホッパーとは、定住する家を持たずに移動しながら生活する人々や生き方、とのこと。 本篇の主人公は塾の講師で、ゲストハウス等々を転々としながら生活しています。 こうした暮らし方なのかと新たに認識した思いですが、人間関係は普通の人とやはり変わらない、いやむしろ難しいかも。 ここはとても速い川/膨張 |
「この世の喜びよ」 ★☆ 芥川賞 | |
2024年10月 2022/12/02 |
「この世の喜びよ」は、ショッピングセンターの片隅にある喪服売り場で働く女性、<あなた>が主人公。 フードコートにいつもいる少女との出会い、彼女との会話によって娘2人との思い出を取り戻していくストーリィ。 今までそれらの思い出は、取りこぼし、あるいは剥がれ落ちていたということなのか。 「マイホーム」は、ハウスメーカーのモデルハウスに一人で体験宿泊する主婦を描いたストーリィ。しかし、そこに家族で住むイメージは生じない。 「キャンプ」は、仲間たちとの子連れキャンプに参加する叔父に一人では参加しづらいからと誘われ、一緒に参加した少年を描くストーリィ。他の子どもたちと一緒に過ごしても、結局は一時的な出会いというだけ。 それぞれの主人公の気持ち、感情の変遷を辿ったストーリィだと思うのですが、集中力を欠いたせいか、もうひとつピンとせず。 この世の喜びよ/マイホーム/キャンプ |
「共に明るい」 ★☆ | |
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何やら、よく掴みきれないまま読み終えてしまった、という困惑感が残ってしまった短篇集。 ・「共に明るい」:路線バスの中、一人の中年女性が、我が子が保育園児の頃に起きた指切断という事故のことを語りだす。 知りもしなかった相手だからこそ、思いのまま話をすることができるのでしょうか。 乗客皆が女性の話から、彼女の息子に関心を持ってしまったところで本人が降車してしまう、という顛末が面白い。 ・「野鳥園」:出産したばかりの女性と少年、たまたま野鳥園のベンチで隣り合っただけの2人が会話を始める。 エレクトーンのことで、年の離れた2人の会話が弾む処にそこはかとなく楽しいものを感じます。 ・「素晴らしく幸福で豊かな」:マッチングアプリで知り合った男がスキーに出掛けた間、レオパ(ヒョウモントカゲモドキ)の世話を押し付けられた女性の話。 何と言うか、そこまで男に従わなくてもいいように思うのですけど。 ・「風雨」:折角の修学旅行なのに、台風のお蔭で渡った島に閉じ込められた高校生たち、引率の教師たちの3日間を描いた篇。 その島というのが五島列島の福江島。 私も五島列島ツアーの際、台風の影響で殆どの船が運行休止となり、最後のフェリーでやっと島に渡ったという経験をしていることから、彼らが行けなかった観光場所等々も合わせ、リアルに感じられました。 ・「池の中の」:電池検品バイト先で、それぞれ勝手な会話が弾む。それはそれで楽しいのかも。 共に明るい/野鳥園/素晴らしく幸福で豊かな/風雨/池の中の |
「無 形」 ★☆ | |
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海辺近くにある古い団地。 既に取り壊しが決まっており、住民の立ち退きが進んでいる。 そんな団地を舞台にした群像劇。 率直に言って、充分に読み切れなかったという思いが残ります。 登場人物の名前は皆、カタカナで記され、どういう家族関係にあるのか、その性別さえすぐには把握できない。そのうえ、改行も少なく文章も捉えづらい。 ただ、無理矢理読み進んでいけば次第に人物関係は分かってくるというもの。 この団地で残された古い住人たち、個々の世帯があるとは言ってももはや団地全体での大家族、その大家族の一員ということではないかと思えてきます。 年老いた祖父と孫娘の二人っきりという家もあれば、親が失踪して姉と弟の二人っきりという家もあります。 また、子どもたちは独立し夫も亡くなり、近所の犬の世話を引き受けている一人暮らしの老女、弟を気遣う兄とそれを疎ましがる弟という二人もいる、という具合。 団地の中では個々の家庭事情も共有されている様です。 私の子どもの頃、昭和30年代の近所関係は、そんなものだったのではないか。 かつて当たり前、今はこうした古い団地に残る人々の有り様を描いた群像劇、と感じます。 |