大震災報道の避難所風景を見て、空襲を受けて避難・疎開した当時のことを思い出した。
私が住んでいた岡山市は昭和20年6月29日に米軍空襲により被災し、全焼した町には焼死体が転がっていた。我が家も全焼したが家族は無事であり、子供は親から離れて終戦まで田舎に住む親戚数軒を転々と移り住んだ。
当時私は小学校6年生であった。入学した昭和15年は尋常小学校最後の学年であり、紀元2600年が奉祝されていた。幼稚園卒園前に大阪の親戚を訪問した際に橿原神宮を参詣したことを憶えている。既に支那事変が進行中で日本は戦時色一色であった。今回の震災では多くの被災者応援歌が作られているが、戦争中の私たちは戦争応援歌を歌っていた。
「愛国行進曲」(昭和12年内閣情報部公募愛国国民歌)
・昭和13年国家総動員法公布
「荒鷲の歌」(昭和13年)
「出征兵士を送る歌」(昭和14年講談社公募)
「ほんとにほんとにご苦労ね」(昭和14年軍隊小唄)
「隣組」(昭和15年隣保組織明文化。国民歌謡)
「紀元二千六百年」(紀元二千六百年奉祝会・日本放送協会が公募した国民奉祝歌)
「紀元二千六百年頌歌」(紀元二千六百年奉祝会選定)
「そうだその意気」(昭和16年国民歌謡)
・昭和16年国民学校令施行。音楽教科書に収録された代表曲を1曲ずつ紹介する。
第一学年:ガクカウ
第二学年:日本
第三学年:田道間守(たじまもり)
第四学年:きたへる足
第五学年:大八洲
第六学年:鎌倉
・昭和16年12月8日太平洋戦争開戦
真珠湾攻撃九軍神の一人、軍神片山兵曹長の追悼曲が岡山で歌われていたが今は忘れ去られている。
〽おお赤磐の五条村 瞼に浮かぶ山河よ 汝が愛撫の鞭受けて
鍛へし命嬉しくも 君に捧げて靖国の 華と薫らむ時は来ぬ
いざ行けハワイ真珠湾
「大東亜決戦の歌」(昭和17年2月シンガポール陥落戦捷祝賀、東日・大毎懸賞当選歌)
「進め一億火の玉だ」(昭和17年大政翼賛会)
「欲しがりません勝つまでは」(昭和17年大政翼賛会公募標語を歌曲化)
「国民歌 山本元帥」(昭和18年4月18日山本五十六戦死追悼)
「アッツ島血戦勇士顕彰国民歌」(昭和18年5月30日アッツ島玉砕顕彰。昭和18年朝日新聞選定)
「ああ紅の火が燃ゆる」(昭和18年10月学徒出陣開始。昭和19年勤労学徒動員令制定歌)
「比島血戦の歌」(昭和19年読売が陸海軍へ献納)
「お山の杉の子」(昭和19年日本少国民文化協会選定)
「勝利の日まで」(昭和19年映画主題歌)
「勝ちぬく僕等少国民」(昭和20年国民歌謡)
集団登校したとき奉安殿の前に整列して竹槍を構え、ルーズベルトとチャーチルの似顔が付いた巻藁めがけ「一死君国に奉ず、必勝」と唱えて突かされた。昭和19年に私は国民学校5年生になり、先生から薦められて海洋少年団に入団した。しかし漕艇訓練などは一度も受けず、棒術訓練や手旗信号・モールス信号の練習ばかりしていた。朝は棒を持って校門で門衛をし、先生が出勤してくると「ささげ杖」の敬礼をした。海洋少年団団歌を憶えたが、その後一度も聞いたことがない。憶えているくだりだけ記録しておく。
〽神代ながらに日本を めぐる潮の歌聞けば 心も躍る身も躍る
海は皇國の守りぞや いざや立ていざ奮へ 海に生き 海に死ぬ
我らは海洋少年団