平成20年5月11日、大衆文学研究会神奈川支部での講演内容をご紹介します。
大衆文学が寄席で演じられていた人情噺から発展したものであることをお話しました。


§人情噺から大衆文学へ

職業落語家が寄席で営業するようになったのは寛政年間で、当時から続き物の人情噺を得意とする人が存在した。明治以前の落語家が寄席で真打を勤めるには長編人情話を演じて連続して毎晩客を呼べる技倆を持つことが条件になっていた。場合によってはフィクションの作者が演じることもあった。

人情噺の作者として三遊亭圓朝の名が高いが、創作の数は多いものの、元は以前から伝わったものを演じており、圓朝が創作した作品を演じるようになったのは、自分の予定している演目を助演してくれる師匠の二代目三遊亭圓生が先に演じてしまうので、師匠の演目を避けるためであったと伝えられている。安政6年に成立したと考えられている『累ヶ淵後日怪談(のちの真景累ヶ淵)』が初めで、その後は自作を中心に演じるようになった。

明治になって帝国議会の開設に備えての速記術が現れてからは口演が筆記され、先ず代表的な演者であった三遊亭圓朝の『怪談牡丹灯籠』が明治17年に刊行された。また落語家の人情噺だけでなく講釈師も同様に駆り出され、講談では明治18年に松林伯圓の『安政三組盃』が刊行された。明治19年に創刊された「やまと新聞」は付録に『松の操美人の生埋』を付けた。さらに『中央新聞』『絵入自由新聞』が続き、大新聞や地方の新聞にも落語講談の速記が連載されるようになり、新聞は販売促進のために争って人気の取れる演者の口演を載せ、また落語家の芸が全国に知られるようになった。新聞に連載されたあとも単行本として出版され、人情噺や講談の速記本は格好の読み物となった。圓朝の速記に刺激を受け坪内逍遙の推奨もあって二葉亭四迷は口語体文学として『浮雲』を明治20年に発表している。さらに山田美妙が言文一致体の『武蔵野』を発表した。

明治20年代に入ると落語・人情噺、講談の速記を専門に集めた『百花園』『花筺』『都にしき』『東錦』、大阪の『百千鳥』などの雑誌が創刊された。これらの読物の普及が文芸活動を活発にして、明治28年になると博文館から『文芸倶楽部』が創刊されて落語・人情噺、講談および大衆文学が同じ紙面を飾るようになった。

しばらくは速記本の黄金時代が続いて、明治44年に講談社が『講談倶楽部』を創刊し、「面白くてためになる」をモットーに落語・講談・浪花節・演芸などの記事を並べてバラエティに富んだ紙面を作った。ところが大正2年に『講談倶楽部』臨時増刊「浪花節十八番」を発行したために、大道芸である浪花節と同列に扱うなと講談社に抗議する講釈師たちは、落語家とともに講談社の雑誌への速記掲載を拒絶した。おもしろい雑誌づくりを目指す方針であった講談社は、やむを得ずまだ発展途上にあった大衆小説の文士たちにおもしろい読み物として新講談の創作を督励した。またその後も長く講談社は従来からある伝統的な講談、落語・人情噺を掲載することをしなくなった。それとは逆に文士たちが創作した大衆文学が新聞雑誌に掲載されるようになった。落語の速記が「講談倶楽部」紙面に再び掲載されるようになったのは大正10年からであり、それまでは落語も新作ものを載せていた。それ以後は大衆文学の作家が育ってきて、人情噺や講談が新聞に連載されることも少なくなった。

§人情噺を得意とした落語家と得意演目(明治17年の番付「当時落語家有名鏡」による)

このように人情噺と講談は大衆文学の源流であるが、その後映画やラジオなど多くのメディアが現れたために今では人情噺・講談を連日にわたって寄席で聴くという習慣がなくなり、演者もときたま部分的に読み切りで演じるにとどまっている。そして長編人情噺の作者であり演目が多く残されている三遊亭圓朝の作品のみが有名になっている。しかし明治前半には多くの落語家が長編人情噺を演じていた。

明治17年の番付「当時落語家有名鏡」では当時の落語家の名前と得意演目が次のように記述されている。

別格:春錦亭柳桜(四谷怪談)。明治27年没。

頭取:団柳楼(柳亭)燕枝(島千鳥沖津白浪):初代。明治33年没。

同 :三遊亭圓朝(西洋人情咄):初代。明治33年没。

           桂文治(おさん茂兵衛):6代目。明治44年没。

           五明楼玉輔(写真の仇討):3代目。明治39年引退、大正7年没。

           古今亭志ん生(桂川の仇討):2代目。明治22年没。

           桂文楽(和尚次郎):4代目。明治27年没。

           春風亭柳枝(新門辰五郎):3代目。明治33年没。

           三遊亭圓橘(鳥追お松):2代目。明治39年没。

           三遊亭圓生(牡丹灯籠):4代目。明治37年没。

           柳亭左楽(正本ばなし):3代目。明治22年没。

           土橋亭里う馬(玉子屋政談):5代目。明治26年没。

           司馬龍生(大岡政談):6代目。明治19年上方へ。

           三遊亭新朝(佃まつり):2代目。明治25年没。

           蜃気楼龍玉(八百屋お七の伝):初代。明治22年没。

           麗々亭柳橋(音曲ばなし):4代目。春錦亭柳桜の長男。明治33年没。

           柳亭左龍(四谷怪談):初代。明治43年没。

           桂文鶴(大岡政談):のち6代目三笑亭可楽。地方周りののち大正9年引退。

           春風亭柳朝(玉子屋政談):2代目。明治20年代に地方で客死。

などとなっている。下位の落語家では滑稽落語で人気を取るものもいたが幹部級では人数がわずかである。

明治20年前後に三遊派と柳派の会派に分かれて人気を競いあったが、明治30年前後に人情噺を得意とする幹部のほとんどが亡くなった柳派に比べて、三遊派は4代目圓生・4代目圓喬・初代圓右・2代目小圓朝など圓朝の門弟たちがのちのちまで大勢活躍したために長編人情噺は圓朝作品が主流になるに至った。そのため長編人情噺は三遊亭圓朝作がほとんどと思われているが、実際はもっと多くの演目があり、明治期の速記が多数残されている。

§吉田章一著『江戸落語便利帳』(青蛙房)に収録した人情噺

今回私が『江戸落語便利帳』(青蛙房)に『増補 落語事典』(青蛙房)を補うために収録した人情噺は以下のとおりである。

空き屋の悲鳴
 明烏雪夜の話
 阿部川原風のあだ浪
熱海土産温泉利書
 有松屋美代吉
 在原豊松
粟田口霑笛竹
 岩出銀行血汐の手形
 宇都谷峠文弥殺し
梅若七兵衛
英国孝子ジョージ・スミス之伝
英国女王イリザベス伝
英国竜動劇場土産
蝦夷錦古郷之家土産
○応文一雅伝
○荻の若葉
後開榛名梅ヶ香
 和尚次郎
 お女郎忠次
 お富与三郎
 お初徳兵衛
 お松御殿
 怪談浮船
 怪談嬉野森
怪談江島屋騒動
怪談阿三の森
 怪談累草紙
怪談真景累ヶ淵
怪談乳房榎
怪談牡丹灯篭
 開明奇談写真之仇討
敵討札所の霊験
○火中の蓮華
 髪結新三
 官員小僧
 厳亀楼亀遊
 奇縁の血刀
 菊模様延命袋
菊模様皿山綺談
霧隠伊香保湯煙
○恋路の闇
黄薔薇
 子宝
 小雛助七
 小紫権八
 西海屋騒動
 佐倉宗五郎実伝
 ざんぎりお滝
塩原多助一代記
 塩原多助後日譚
 時雨の笠森
 実説天一坊
 実説倭往来
 忍ヶ岡加賀屋奇聞
 忍ヶ岡恋の春雨
 島鵆沖白浪
 車中の毒針
 正直安兵衛観音経
心中時雨傘
 捨丸
 墨絵之冨士
政談月の鏡
 切なる罪
 千人塚の由来
 宗aの滝
 染分手綱
○谷文晁の伝
椿説蝦夷なまり
月謡荻江一節
 剣の刃渡
鶴殺疾刃包丁
 富田屋政談
 友千鳥
 流れの暁
業平文治漂流奇談
後の業平文治
 西海浪隆盛
 函館三人心中
 旗本五人男
*八景隅田川
 薔薇娘
 引窓与兵衛
 封文小堀水茎
 深緑磯の松風
 二人茂兵衛
 弁天小僧仙吉
 北国奇談梅の大木
 本所七不思議
 迷子札
松と藤芸妓の替紋
松操美人の生埋
 三浦屋揚巻
操競女学校
緑林門松竹
 孤児
 宮の越検校
名人くらべ
名人長二
 役者三面鏡
 奴勝山
 柳影月の朧夜
 柳乃糸筋
 倭歌敷島譚
闇夜の梅
 やんま久次
 幽霊長屋
 善悪草園生咲分
 吉原綺談
 四谷怪談
 両国八景
 若草双紙

(*付きは春陽堂版『圓朝全集』収録、○付きは圓朝口演速記が残っているが春陽堂版『圓朝全集』に未収録)

この中で圓朝作と伝えられている演目は1/3程度であり、その中でも実は圓朝が演じる以前からあったかもしれないものもありそうである。圓朝が演じていた演目には『圓朝全集』に載っていないものもかなりある。近年演じられている短編人情噺でも圓朝作のほか、柳派の人たちが伝えてきたものもかなりある。

§『増補 落語事典』(青蛙房)に梗概を収録した短編人情噺

幾代餅、井戸の茶碗、稲川、梅若礼三郎、阿武松、おかめ団子、おさん茂兵衛、鬼薊清吉、お初徳兵衛、帯久、お藤松五郎、お若伊之助、鰍沢、雁風呂、傾城瀬川、小間物屋政談、子別れ、紺屋高尾、芝浜、正直清兵衛、唐茄子屋政談、遠山政談、長崎の赤飯、猫怪談、猫定、浜野矩随、双蝶々、不昧公夜話、文七元結、将門、三井の大黒、八百蔵吉五郎、柳田格之進、吉住万蔵、淀五郎

§人情噺『お藤松五郎』とその原話および改作

 三遊派と柳派の双方で演じられていた人情噺の一つとして「お藤松五郎」を見てみよう。

この作品を圓朝は若い頃芝居噺として演じたと伝えられている。しかし、これは圓朝の先輩であり柳派の頭取であった春錦亭柳桜が『奇縁の血刀』という題で演じた長編の人情噺の一節であったと考えられる。その梗概は次の通りである。

『奇縁の血刀』梗概

お茶の水の暗い夜道で商いする麦飯売り甚兵衛、赤ん坊の声を聞き、近づくと武士が女を斬り殺している。赤ん坊も殺そうとするので留めると、妻が間男をしたので斬ったという。甚兵衛が所と名前を良い、赤ん坊は近所の人に乳を貰って育てると言うと、三両の金をくれ、武士は女を神田川に蹴落として去る。音羽一丁目の長屋に帰り、湯から帰ると三十過ぎの女が自分の乳を与え、おしめを替えてくれている。長屋の女がそのことを知らないので幽霊かと思う。しかし翌日も来てくれるので尋ねると二丁目に住む左官の金蔵にお聞きと言う。ところで水戸様裏飛坂の組屋敷に住む与力斎藤茂十郎は二十六才の倅賢次郎に家督を譲り隠居していたが、妻が亡くなり若いおみつを後妻にする。房事が過ぎたか茂十郎は死亡した。賢次郎には妻幾がおり、女の子お藤と、生まれたばかりの赤ん坊竹次郎がいる。その弟福太郎は二十才で、ひ弱だが美男で、おみつが言い寄ってくどくので、切腹する。お幾が福太郎と間男をしたのが原因で、竹次郎が福太郎の胤だと、おみつは賢次郎に嘘を吹き込む。信じた賢次郎が竹次郎を抱かせて連れ出した幾を斬ったのがお茶の水の惨劇であった。賢次郎は仏門に入るため江戸を去るにあたって甚兵衛にさらに五十両届ける。斎藤一家は離散し、おみつはお藤を連れて両国で芸者に育て上げる。十六才のとき一本になり、さらに待合茶屋を始める。中村屋喜右衛門が金を出して後ろ盾になる。お藤は二十六才になる。一中節の松五郎が訪れたときに喜右衛門が来合わせ、嫉妬から杯を投げて松五郎に怪我をさせる。お藤と待ち合わせたのをすっぽかされたと思った松五郎は刀を持ち出す。松五郎の養母は左官金蔵の女房であり、実は松五郎の幼名が竹次郎で、お藤は実の姉と教えられ、松五郎は自害する。喜右衛門がこれをていねいに葬り、お藤は松五郎の養母を引き取る。墓参のときに長寿院の住職がもと斎藤賢次郎と判り、親子が対面する。

つまり『お藤松五郎』はこの長い人情噺の一節を独立させた噺であり、後に三遊派とは別の会派に分かれた柳桜も演じていたものである。さらに2代目三遊亭小圓朝はこの噺を改作して『有松屋美代吉』という噺を作っている。

『有松屋美代吉』(お藤松五郎の改作)梗概

数寄屋町の芸者有松屋美代吉はもと会津家中の松山久馬の娘で、家出した兄を捜している。幇間三八と一緒に美代吉の家を訪れた唐物屋の奥州屋新助が、実はその兄であることが屏風の短冊から分かる。身元を隠して身請けの相談をするとお袋は喜ぶ。そこへ美代吉が好いている元旗本の藤川重三郎が訪れ、三八が招き上げる。重三郎を嫌い身請けを喜ぶお袋が身請けのことを話すと重三郎は腹を立てて出て行く。美代吉が後を追うと重三郎は美代吉をステッキで打って逃げ去る。重三郎が刃物を持って俥で帰る新助を襲うので、新助は取り押さえ、自分が美代吉の兄だと事情を話す。新助は美代吉を身請けして重三郎とめあわす。

このほかにも、圓朝が怪談噺として演じていたと伝えられる『引窓与兵衛』は、柳派の三代目春風亭柳枝が『双蝶々』の続編であると断って『雙蝶余談』の題で演じている。

このように、江戸時代は会派の隔てなく同じ人情噺の演目が演じられていたことが分かる。そして人情噺を創作した巨人とたたえられる三遊亭圓朝も実は先輩たちから伝えられたものを演じていることも分かる。

大衆小説の源流である人情噺を見直すこと、圓朝以外の落語家に目を向けることが必要ではないかと考える。