根津美術館

 根津美術館は地上2階、地下1階です。玄関から入ると受付があり、ホールが広がっています。1階に展示室1~3、2階に展示室4~6があります。数多い根津美術館の収蔵品のなかから、中国に関連する物件として、石仏と青銅器を紹介したいと思います。石仏は1階ホール、青銅器は2階の展示室4で展示されています。


天龍山石窟の石仏


第1窟 菩薩立像頭部
北斉時代


第10窟 交脚菩薩像頭部
北斉時代


第10窟 菩薩立像頭部
北斉時代


第16窟 如来坐像頭部
北斉時代


第18窟 菩薩立像胸像
唐時代


第18窟 如来坐像頭部
唐時代


第21窟 菩薩坐像頭部
唐時代

(The Tianlongshan Caves Project、the University of Chicago)

 天龍山石窟の仏頭が7点収蔵されています。1階ホール庭園側のガラス壁に4点並んでいます。なお向かって左端の美麗な観音菩薩像は、陝西省西安の宝慶寺から早崎稉吉が持ち出したもので、同寺からの別な一連の石仏が、上野の東京国立博物館東洋館1階1室にもずらりと並んでいます。

 天龍山石窟は山西省太原市にあります。東魏(534~550年)に開削がはじまり、北斉、唐、五代(907~960年)ごろまで造営されました。全部で21窟あり、北斉仏教の代表的遺跡です。

 1918に日本人学者の関野貞が見つけて日本に紹介すると、多数の人が訪れ豪華な写真集も刊行されました。世に広く知られると1920年代後半に大規模に仏像が切り出されて、世界中に販売されました。販売したのは大阪に拠点のあった山中商会という古美術商で、社長の山中定次郎が石窟を削って持ち出したと考えられています。

 1928年に大阪で開催された山中商会主催の展覧会で仏頭、手、足など45点が売りに出され、根津嘉一郎が一括して購入しました。その後根津は1937年に美術親善のため、数個をヨーロッパの5、6ヶ国に寄贈しました。1931年の満州事変、続く1933年の国際連盟脱退、1937年の盧溝橋事件と戦火はさらにひろがり、中国大陸の利権をめぐって日本は国際的孤立を深めていました。

 侵略して孤立したうえで、被侵略国である中国の文化遺産から削り盗み取られたものを供与して親善とする発想は、今日の国際常識からすると想像もつきません。たとえていうならば、2022年からロシアがウクライナを侵略していますが、孤立したロシアが親善のためにウクライナから奪った絵画やスキタイ黄金を分け与えているようなものです。

 山中定次郎は天龍山石窟の踏査記録を残しています。彼は1924年6月と1926年10月の2回にわたって天龍山石窟を訪れました。2回目に訪れた時、多く仏像の仏頭が切断されているのを見て驚き、さびしい気持ちになった、地元の人たちが仏像を破壊して売ったのだと断定しました。そして四方八方探し求めて買い集めたと主張してます。

 「併し看て行く内に第一回の時には慥にあつた筈のある佛が痛ましくも、その麗はしい御首を、何者にか掻き落され見るも気の毒な姿で淋しく並んで居るのを、幾體となく發見した。その刹那、私は友人の一人を思ひがけなく失つたやうな哀愁を覺え其心を暗くしたのである。それと同時に、かゝる名作に對し、不埒にも斯うした惨虐な行爲を敢てした者を憎まずには居られなかつた。私は淋しい氣持ちで、それでも窟院の何處かに、その佛の首が轉がつてでも居はすまいかと注意深くこれを探ね求めた。果ては名殘を惜しみながら、此窟院を辭したのであった。」

 「爾来感銘して首を失つた佛達の爲めに、その首を求めて歩ひたのであつたが私の斯うした心が通じたとでもいふのか、ある佛の首を東で求め、ある佛の首を西で發見し、随分かけ離れた土地で、忘れんとして忘れ得ぬ、その胴體染み深い石佛の首を發見したのであつた。私のよろこびは此上もない。實のところその首の一つを發見した際は、萬金を得たよりもうれしかつた。」(「山西省天龍山佛蹟石窟踏査記」自序)

 山中は、1928年11月25~27日に大阪で開催された『支那古陶金石展観』で天龍山石窟の仏頭45点を販売しました。つまり苦労してわずか2年ぐらいで買い集めた45点もの仏頭を、惜しげもなく再度売りに出したわけです。その後も1932年に東京・上野公園で開催された『世界古美術展覧会』で4点、1934年の『支那朝鮮古美術展覧会』では17点も販売しました。

 文物保護を管掌する中国の政府当局が1933年に盗掘を現地で調査しました。調査の所見によると、各窟の仏像・壁画が鑿で破壊され、完全なものは1つとしてなかった、一日で削り取るのは不可能、鑿跡は新しく石片が窟内に満ちていた、鑿跡の面は白いので数ヶ月以内少なくとも半年以上は経っていない、なぜなら夏に連日降雨があり秋には風沙があるため鑿跡はかならず青黒くなる、だから斧鑿跡は最近で決して古いものではないと報告しています。

 中国の研究者たちは、山中定次郎が石窟の仏像を切り取って持ち出したと考えています。石窟は天龍山の裏手の山頂付近にあり、登るのも困難で、石仏は非常に重く、一人や二人で盗掘できるものではない、一朝一夕にもいかない。しかも搬出には麓の聖寿寺の寺門を通らなければならず、山は静かで人も少なく、容易に発覚するはずだ。寺には浄亮と普彼という2人の僧侶が住み、また太原県から派遣された警察官2名も常駐していたことから、共謀でもしないかぎり、阻止することは簡単だったはずだと説いてます。山中定次郎が聖寿寺の浄亮を買収したと疑っています。

 美術館では2009年の改築に際して、現在の技術をもってしても石仏の移動は大変な仕事だったと述べてます。わずか7点の仏頭の展示替えですら困難な作業でした。ましてや交通の便の悪い山奥から石仏を45点も削って運び出すのは、当時とてつもない大事業だった考えられます。

 辛亥革命後、まだ中国で全国的な文物保護の法律が制定されていない時期に、文物流出を懸念して各地で保護規則が公布されました。たとえば河南省洛陽龍門石窟と山西省大同雲崗石窟を保護するため、民国政府内務部は1926年に「保守龍門山石仏規条」を山西省長と河南省長に発出して、管理を徹底させ破壊を厳重に取り締まるように命令してます。天龍山石窟にも警察官が配備されたのは、保護の強化が認識されていたからでしょう。

 その後1928年に内務部から「名勝古跡古物保存条例」が交付され、1930年には文物保護の基本法となった「古物保存法」が制定されました。つまり文物保護制度が一層強化、整備されるのを目前にして、きわめて短期間かつ大量に天龍山石窟から仏像が削り盗まれたのです。

 天龍山石窟から削り取られた仏像の正確な数量は不明です。2013年からシカゴ大学で天龍山石窟プロジェクトが開始され、世界中の博物館・美術館で所蔵されている仏像・仏頭の集計、原位置の推定、3D画像作成などの作業が行なわれました。集成された164点の仏像・仏頭の調査データがウェブサイトで公表され、各石窟の削られた現状と散逸した仏像とを対照できるようになっています。

 164点のうち一番多い国はアメリカで58点です。ハーバード大学美術館に25点もあり、世界で一番多く所蔵してます。つぎに多いのは日本で30点あります。その他の国々にはそれぞれ1~8点しかありません。つまり大部分がアメリカと日本で販売されたと考えられます。2020年に日本から中国に返還された第8窟北壁主尊の仏頭は、シカゴ大学のデータベースにふくまれていません。データベースから漏れた個人所有の仏像・仏頭がまだたくさんあると推測されています。

 中国の石窟から大量に仏像が削り取られたのは、帝国主義の時代でした。宗教紛争やイデオロギー闘争によるイコンや聖物を破壊するアイコノクラズム(偶像破壊、iconoclasm)は、世界史上しばしばおきています。けれども20世紀前半に中国石窟でおきた仏像破壊は、金銭欲と物欲が原因で、日本人が深く関与したことを忘れてはいけないと思います。

参考文献:
外村太治郎『天龍山石窟』金尾文淵堂、1922年。
山中定次郎『天龍山石仏集』1928年。
「中国古陶金石展観」(1928年)『山中商会经手中国艺术品资料汇編』一、上海书画出版社、2020年。
「世界古美術展覧会」(1932年)『山中商会经手中国艺术品资料汇編』二、上海书画出版社、2020年。
「天龍山石仏佛像調査報告」(1933年)『古物保管委员会工作汇报』线装书局、2006年。
「中国朝鮮古美術展観」(1934年)『山中商会经手中国艺术品资料汇編』二、上海书画出版社、2020年。
「山西省天龍山佛蹟石窟踏査記」『山中定次郎伝』山中定次郎翁伝編纂会、1939年。
『館蔵 中国の石仏』根津美術館、2009年。
李 晓东『民国文物法规史评』文物出版社、2013年。46~48頁。
『根津青山の至宝』根津美術館、2015年。108頁。
張 碧惠『中華民国と文物』早稲田大学出版部、2019年。67、72頁。
常青・黄山『国宝流失百年祭』浙江古籍出版社、2021年。319~326頁。
陈 文平・安夙『离家的国宝』中信出版社、2023年。28~40頁。

The Tianlongshan Caves Project (天龙山石窟计划), The Center for the Art of East Asia in the Department of Art History at the University of Chicago.



殷墟の青銅器


饕餮文方盉


饕餮文斝


饕餮文瓿


饕餮文尊

文化遺産オンライン


 河南省安陽市殷墟侯家荘(こうかそう)西北岡(せいほくこう)第1001号墓から出土したと伝えられる青銅器、饕餮文方盉(とうてつもんほうか)3点、饕餮文斝(とうてつもんか)1点、饕餮文瓿(とうてつもんほう)1点、饕餮文尊(とうてつもんそん)1点、計6点が所蔵されています。風格や大きさから殷王大墓に副葬されていたという盗掘品で、いずれも重要文化財に指定されています。

 2階の展示室4の中央に3点の方盉、奥の壁側に瓿と尊が並んでいます。

 殷墟は殷(商)王朝後期(BC14世紀)の首都の遺跡で、王陵遺跡、宮殿宗廟遺跡、洹北(えんほく)商城遺跡などがあります。19世紀末に動物骨に刻まれた甲骨文字の発見をきっかけに、文献に記述された古代王朝の実在が証明され、1928年から安陽市小屯村で発掘調査がはじまりました。発掘は中央研究院歴史語言研究所の主宰で、1937年の盧溝橋事件で中断するまで15回行われ、1934~5年に侯家荘の王墓群が発掘されました。

 日中戦争の戦禍から出土遺物や研究資料を守るため、研究所のスタッフは資料とともに南京から長沙、桂林、昆明、四川省の李荘へと、多大な苦労をかさねながら疎開を繰り返しました。最終的に資料は中華民国政府にともなって台湾へと運ばれ、ようやく発掘資料の整理が進んで、1962年から王墓の報告書が刊行されました。

 王墓群は、大規模な墓道をもつ巨大な墓が14基と、それらに付随する小墓約1,000基からなっていました。研究所による公的な発掘がはじまる前から安陽一帯では盗掘が横行してました。侯家荘の大墓に遺っていた副葬品も非常に少なく、大半が盗掘によってすでに持ち出されたと考えられています。

 根津嘉一郎は「左」の銘のある饕餮文方盉を1933年3月に山中商会から購入しました。同じ王墓から出土したとされる他の青銅器も一括して購入したのでしょうか?出所由来が明記されていないので不明です。

 1930年に中国では文物保護の基本法となった「古物保存法」が制定されました。第7条で「地下に埋蔵あるいは地下から地表に出土した古物はすべて国有に帰す」と規定しています。つまり考古学資料や発掘の出土品は国に所有権があり、私的に売買できなくなりました。山中商会が殷墟出土の青銅器をいつ入手し中国から持ち出したのか不明ですが、少なくとも根津が青銅器を購入した時には、中国で考古学資料の私的売買が禁止され、しかも現地で正式な学術調査が進行中でした。

 1934年に侯家荘西北岡・武官村で多数の青銅器が盗掘されたという地元民からの情報をもとに、急遽研究所はまだ未調査だった洹河(安陽河)北部の発掘に10月から着手し、4基の大墓と63基の小墓を調査しました。周辺の治安は悪く、武装した盗掘団が研究所の調査区付近で公然と盗掘してました。根津美術館の青銅器は、王墓調査の少し前に出土し、日本にもたらされたと思われます。

 日本による中国侵略戦争により、殷墟では警備がなくなりふたたび盗掘が横行しました。無法地帯と化した殷墟から青銅器が次々に運び出されて密輸されたと思われます。史跡調査のため外務省から派遣された考古学者小野勝年が、1939年に殷墟を視察しました。以前から埋蔵品を盗掘して巨利を得ようとする徒が少なからずいたが、日中戦争勃発後は公然と盗掘が行なわれ、訪れた日にも数組のものが大規模な盗掘を続けていたと、彼は報告しています。白昼堂々と複数の場所で盗掘が行なわれていたのです。

 著名な遺跡は戦争になると盗掘されます。現代でも紛争地の遺跡から文化財・文化遺産が大量に盗掘され、深刻な事態となっています。たとえば下の2枚の衛星画像をご覧ください。シリアのドゥラ・エウロポス(Dura Europos)というヘレニズムからローマ帝国時代に繫栄した古代都市遺跡で、1999年にユネスコ世界遺産の暫定リストに登録されました。遺跡はシリア東端に位置し、イスラム過激派「イスラム国」の勢力範囲に取り込まれると、資金稼ぎのため徹底的に盗掘されたのです。2011年と、遺跡全体に無数の盗掘坑が掘られた2014年の衛星画像です。


シリアのドゥラ・エウロポス遺跡(2011年、2014年)
UNITAR, 2014)

 現在、戦時文化財保護の国際条約では考古学的遺跡の保全が規定されています。しかしイスラム過激派は国際条約をまったく無視しました。

 戦時文化財保護の国際規範は19世紀末から発展しました。1899年と1907年のハーグ万国平和会議で採択された条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約、ハーグ条約)では、宗教・芸術・学術・慈善施設や病院への砲撃回避とともに、歴史記念物・美術品・文化財の押収・破壊の禁止が規定されています(第27条、第56条)。日本は1900年と1911年、中国は1907年と1917年にそれぞれ批准しました。日中戦争勃発後に外務省が中国北部の史跡調査のため考古学者を派遣したのも、戦時文化財保護を意識していたからだと考えられます。はたして日本は中国侵略戦争で、戦時文化財保護の国際規範をどの程度遵守したのでしょうか、戦後検証されていません。

 中国国内法で文物保護が強化され、また国際条約で戦時文化財保護が規定されていたにもかかわらず、それでも中国古代王朝の重要遺跡である殷墟で、大規模に盗掘が横行したと推定されます。

 もともと中国では古くから盗墓の歴史があり、『史記』には楚の項羽が秦始皇帝の墓をあばいた話が登場します。歴代王朝の皇帝の陵墓があばかれるのも珍しくありませんでした。清朝の時代にはさほど目立った盗墓の大事件はなかったのですが、民国時代になると大規模で世人を驚かせる盗墓事件が次々におきました。党玉琨(とうぎょくこん)による陜西省一帯の盗掘、孫殿英(そんでんえい)による清東陵の乾隆帝陵と西太后陵の盗掘、李品仙(りひんせん)による楚王墓の盗掘などが有名です。いずれも将領たちが資金集めを目的に盗掘したと見られています。

 軍閥たちによる盗掘とは別に、1920年代にとくに世界の古美術市場と考古学界で注目をあびた盗掘品が、2ヶ所の遺跡からもたらされました。1ヶ所は安陽殷墟で、もう1ヶ所は同じ河南省の洛陽の金村で、戦国時代の東周(?)大墓から出土したものです。殷墟の青銅器と同様に、金村出土の遺物は珍重され世界中の博物館や個人コレクションに所蔵されています。

 20世紀前半の帝国主義の時代に中国で次々に盗墓が多発したのは、大金を惜しまずに盗掘品を購入する富裕層が存在したからです。過熱する古美術市場ですさまじい需要が生じ、大量の供給が必要になりました。中国が帝国主義列強に侵食され、半植民地状態となって世界市場に組み込まれるなか、とくに新興帝国主義であった日本やアメリカの古美術市場へと膨大な数量の文物が供給され、流出したと考えられます。

 20世紀前半に中国から海外に流出した青銅器は、梅原末治の『欧米蒐儲支那古銅精華』1~7、1933~35年の547点、『日本蒐儲支那古銅精華』1~6、1959~64年の438点、陳夢家『美帝国主义劫掠的我国殷周铜器集录』1962年(松丸道雄編『殷周青銅器分類図録』1977年)の845点でおおよそ紹介されて、博物館やコレクターたちの収集状況も分かります。その後海外で大幅な青銅器の移動や新しい物件の大量な出現はおきていません。新中国成立後に文物保護制度が強化され、また違法文化財禁止国際条約に中国が加盟したので、盗掘品の密輸が困難となり、海外の青銅器コレクションに大きな変動が見られなくなりました。

 アメリカの有名な中国文物コレクションの1つが、根津と同じく鉄道実業家だったチャールズ・ラング・フリーア(Charles Lang Freer)の集めた収集品で、スミソニアン博物館アジア美術館にあります。青銅器の逸品も多数ふくまれています。フリーアの収集には古美術商盧芹齋(ルー・チンツァイ、C. T. Loo)が深く関係しました。

 根津美術館の青銅器以外に日本で有名な中国青銅器コレクションは、住友財閥の住友友純(ともいと、春翠)の集めたもので、京都の泉屋博古館(せんおくはくこかん)で展示されています。また古美術商坂本五郎の収集した青銅器コレクションが奈良国立博物館に展示されています。

 これらの青銅器を観るときは、帝国主義の時代に中国から大量に文物が流出したことを思い出し、そして武装した盗掘団も暗躍して盗掘坑だらけの無残な姿となった重要遺跡を想像してください。

 
参考文献:
梅原末治『日本蒐儲支那古銅精華 第1冊』山中商会、1959年。
『館蔵 殷周の青銅器』根津美術館、2009年。
陈洪波『中国科学考古学的兴起』广西师范大学出版社、2011年。190、201~204頁。
李 晓东『民国文物法规史评』文物出版社、2013年。115、118頁。
Satellite-based Damage Assessment to Cultural Heritage Sites in Syria, UNITAR, 2014
Wang, Daisy Yiyou, C.T. Loo and the formation of the Chinese collection at the Freer Gallery of Art, 1915-1951, In Jason Steuber (ed.), Collectors, Collections, and Collecting the Arts of China: Histories and Challenges, ‎ University Press of Florida, 2014. pp. 151~182.
『根津青山の至宝』根津美術館、2015年。114頁。
张昌平「中国青铜器在海外及港台地区的收藏与研究」『南方文物』2019年第4期。
飯島武次『中国殷王朝考古学研究』同成社、2021年。

「5.北支那ニ於ケル史蹟ノ現状並其ノ保存ニ就テ(支那視察報告第五号) 自昭和十四年八月」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05016094800、参考資料関係雑件 第十巻(H.7.2.0.4_010)(外務省外交史料館)