「河合文庫 韓国典籍」

『泰東古典研究』第10集、翰林大學校附設泰東古典研究所。1993年12月。

千 惠鳳(チョン・ヘボン)〔成均館(ソンギュングァン)大学校 名誉教授〕
〔翻訳〕李 洋秀(イー・ヤンス)

  目 次
Ⅰ 初めに
Ⅱ 蒐集者の略伝
Ⅲ 筆写本の主題領域別分析
Ⅳ 刊印本の版種頒賜鈐印別分析
Ⅴ 結びに


Ⅰ 初めに

 1966年ユネスコ研修計画に沿って中国では宋元本、日本では韓国典籍を中心に、全国の主要図書館と文庫を探訪調査しながら研修した。その期間中、京都大学では『朝鮮朝活字印本の特徴』についての発表計画が用意されていて、その準備のために同大学の附属図書館河合文庫と谷村文庫は勿論、文学部図書館韓籍朝鮮本、人文科学研究所松本文庫朝鮮本を隈なく調査し、その中から活字本を選び3時間余りをかけて講演したことがあった。この時初めて詳しく調べた河合文庫所蔵は刊印本よりは筆写本に原資料、稀覯資料と研究に有用な資料が多く入っていることを知った。しかし当時、調査の目的は刊印本、その中でも活字本の実査が主だったので、筆写本の調査までは及ばなかった。その後、その文庫目録が出刊されることを期待したが1971年度に至ってやっと略式に作成された仮冊子目録が油印され、それが今日まで利用されている実情である。したがってその文庫所蔵全般に対する書誌情報は周知のように具体的に知ることができず、学界で常に惜しまれて来た。

 1990年度に文化部(文部省に該当)新設に合わせて海外流出韓国典籍調査計画が樹立されると、壬辰倭乱(文禄の役)の時流出した典籍の調査に続き、河合文庫本が選定され調査することになったのも、資料の重要性に比べて目録がとても疎略で、正確な書誌情報を得られないところから起因したと言えよう。この事業を韓国書誌学会が委嘱を受け、1992年10月14日から11月22日まで40日間にわたって筆者を団長として文化財専門委員李廷燮(イー・ジョンソプ)、韓国書誌学会幹事金己用(キム・ギヨン) と共に調査に臨み、まだその整理に余念がない。

Ⅱ 蒐集者の略伝

 本文庫の蔵書蒐集者は日本人、河合弘民氏である。彼の来歴は詳細に伝えられたものがなく、ただ彼が他界する時に知られた消息が、『東洋時報』第241号(大正7年10月号)雑報欄に簡略に紹介されているだけだ。その後、学報人名事典等に紹介されたものも、すべてこの時報の記事を元に簡略に転載したのに過ぎない。その記録によると河合氏は1873年(明治6)に生まれ、1898年(明治31)東京帝国大学文科を卒業した。卒業後、国内の中学校で教鞭を取っていたが、1907年(明治40)東洋協会専門学校京城(ソウル)分校に教頭として赴任したが、この文庫の蔵書はまさに、この時から蒐集し始めたものである。

 その当時は韓国典籍が豊富で、どこでも安価で入手することができた。彼が1915年(大正4)本校に復帰するまで9年間にわたって蒐集したものが、今日に伝えられているその文庫本であり、その後これを土台に朝鮮朝の財政を研究し始め、1916年(大正5)に『李朝税制に関する研究』を初めて発表し、その業績で文学博士学位を授与された。そして帰国後、彼はわが国で蒐集した資料を基に京都大学文科で朝鮮制度の講義を受け持ち研究していたが、1918年(大正7)10月40歳で他界した。

 河合氏が京城にいた9年間に蒐集した蔵書は全部で793部、2,160冊だったが、彼が亡くなった翌年である1919年(大正8)に、今西龍氏の斡旋で京都大学がこれを購入した。古文書に関しては言及がないが、探問したところによれば当時一括購入したし、その総数は236点であると知られている。

 これらの全蔵書の中から今回は典籍だけを対象とし、虫食いと毀損の甚だしいものを除く筆写本450種余りと刊印本270種余り、都合720種余りである。この文庫の典籍は上でも言及したように、刊印本よりは筆写本に原資料、稀覯資料及び研究に参用される資料が多く入っているのが特徴である。

Ⅲ 筆写本の主題領域別分析

 筆写本に入っている原資料、稀覯資料及び研究に参用される資料を主題領域別に列挙してみると、国役市廛類を始めとした財政、行政、詞訟、啓疏、故事雑史、外紀、地図、正音及び詞曲類等である。特に国役市廛類には他では見られない原資料が150種も蒐集されていて、文庫の資料価値を一層高めている。国役市廛とは朝鮮朝の首都ソウルにあった市廛の中から、特定商品の専売権と禁乱廛の特権を官府から保護を受け、商業経済をほとんど独占する一方、官府の各種需要を受持つ、いわゆる国役負担の義務を負う御用商業団体を称する。この商業団体は組織が元来6部処で形成され、よく六矣廛と言われ、その他にも六注比廛、六部廛、六分廛、六長廛、六主夫廛等と称されたものに該当する。

 そして高宗(コジョン)朝に至っては、六典條例により8部処に細分化されたりもした、これら各廛が義務的に遂行する役分は各廛の等級によって、それぞれ異なった。平市署を通じて、これら御用市廛が貢納する物品の品目と数量を各廛都家に下命すれば、都家は負担能力に沿って比率を定め、その分賦を総括して上納したのである。このように役分を捧納する市廛を有分各廛と言い、無分各廛と区別した。

 ここには有分各廛の内、8分という大きな比重の国役負担を貢納した綿紬廛の原資料がほとんど網羅されている。その資料を通じて綿紬廛の組織を調べてみると、一般的には大行首領位公員または首席所任となっているが、規模が大きいのは大行首都領位、首領位(席)、副領位、領位(座)、都公事、公事領位、公員次知、曺司等で構成され、その業務を総理から帳簿整理に至るまで分担遂行した。

 官府に貢納する国役の種類は多様だ。貢案節目に従って国家に定期的に捧納する歳幣及び方物の元貢をはじめ、官府の需要に沿って随時捧納する房別税金、宮室と官府の修理及び廟宮祭礼等に必要な物品及び経費負担、宮室の冠婚葬祭時の礼捧、宮中の朔膳及び陳賀用品の供上、そして稗房の防口人差出、即ち平市署を通じて要請して来る宮・殿・廟・宮司の改修・塗褙・窓戸作業をはじめ、幕次縫造・祭享床足・年例陵行・櫃函内塗等のために出庫応役した原資料が等しく備えられていた。綿紬廛資料の作成時期において、官府が用意した市廛節目のようなものは、正祖(チョンジョ)・純祖(スンジョ)・憲宗(ホンジョ)朝のものが若干あるが(図1参照)、上で上げた一般的国役市廛資料は哲宗(チョルチョン)朝から現れ始め、主に高宗朝初期から国権を失う1913年まで及んでいる(図2参照)。これらの資料は朝鮮朝末期財政史は勿論、都市商業経済史研究において貴重な資料になる点から、その価値が大きく評価される。

         
図1 純祖32年(道光12年、1832)閏9月
別出次知歳幣貢案節目
  図2 高宗2年(1865)
綿紬廛朔饌捧納記録 


 財政即ち度支及び賦税に関する資料において特記することは、開国504年(高宗32、1895)から建陽元年(高宗33、1896)にかけて咸鏡道(ハムギョンド)内の各府・郡・県の穀食糧を記録した道内穀捻をはじめ、江界(カンゲ)府管轄の江界郡・渭原(ウィウォン)郡・厚昌(フチャン)郡・慈城(チャソン)郡・長津(チャンジン)郡・楚山(チョサン)郡の米銭・生麻・その他産物の歳入を記録した銭穀都数成冊とか、江界府会計文簿、各邑結総攷、税務、結銭、戸布、納参及び京司上納をはじめ前巡兵営所納銭、田沓(下は日でなく田)結、火田結、戸銭、店税、巫税等、多様な賦税の原資料が収集されている点だ。その他にも高宗3年(1866)任実県民に納銭布、数爻を知らせる洞布節目をはじめ、光武6年(1902)に作成した火災時の蕩減謄録冊が収集されている。例え特定の道と地方の税制に関する原資料ではあっても、これを通じて朝鮮朝末期の度支及び財用の一端を実証できるという点から資料価値が認められる。

 行政に関する官署文案も多様に収集されている。内部、外部、学部、法部、軍部、農商工部等、各部の訓令をはじめ地方官署での報告謄録及び各郡府令謄録、そして状啓慰諭使報告等の原資料が備わっている。地方官署の文案は咸鏡道江界府とその管轄各部及び明川(ミョンチョン)郡をはじめ関東地方・関西の義州(ウィジュ)・京畿(キョンギ)地方・慶北(キョンブク)迎日(ヨンイル)の諸謄録原本等に細分される。その他に中央官署の議政府・備辺司謄録資料も見られる。これら原資料の作成時期は高宗朝、その中でも旧韓国時代のものが主流を成しているので、この時期の行政史研究において貴重な史料になれるだろう。

 訴訟に関する資料と刑獄及び判決資料も比較的収集されている。その資料をよくみると咸鏡道江界府各郡と吉州(キルチュ)をはじめ慶尚道(キョンサンド)盈徳(ヨンドク)・興海(フンヘ)、黄海道(ファンヘド)白川(ペクチョン)、全羅道(チョルラド)茂朱(ムジュ)の獄案、判決書、民訴謄録、査案、訟案等で、その作成時期はやはり開国504年(高宗32、1895)以後の旧韓国時代に該当する。主に民訴に関する判決と刑獄関係の原資料なので社会経済史研究に大きく参用される資料になるだろう。

 啓疏は臣下が王に奏進し、政事の是非を條議して上げた字で、その用語はその他にも奏疏、上疏、疏剳、封事、状啓等が多様に書かれている。この啓疏は王の制誥、教書、綸音と共に治国政事の根幹になるので、史書において正史の参稽資料として重視して来た。この文庫の筆写本にはそのどの主題分野よりも啓疏類が広範囲に収集されていることが、また特徴である。英廟朝の啓疏謄録をはじめ公庫文が、英祖(ヨンジョ)末期から哲宗朝まで5種も収集されていて、疏剳、章奏隋録、状題草槪が哲宗朝から旧韓国時代まで収集されている。その他にも英祖19年(1743)から純祖5年(1805)までの瀋事啓録と蔡済恭の樊巌奏議、朴世采(パク・セチェ)の筵中講啓、そして憲宗8年(1842)から哲宗5年(1854)までの黄閣奏封等が添えられていて、緊要な史料の役目を果たすだろう。

 故事雑史類の資料がまた豊富に収集されていることが、本文庫が持つ特徴のうちの一つである。編撰体裁中心の伝統的史部は紀伝体正史類、編年体史書類、紀事本末体史書類が基本になる三体史書であり、その他に別史類がもうひとつあるだけだ。別史類は紀伝体正史を訓釈したり、遺闕を掇拾したり、異同を弁証したり、字句校正に参証できたり、正史類から岐出旁分された紀伝体私撰を称するものなので、その種数は特に多くはない。したがって史書のうち、上の4種史書の性格を抜け出たものはほとんど雑史類に該当する。このように雑史類の領域は広くその種数が多いが、だからといって全てのものが皆ここに含まれるのではない。雑史類は体裁上で衆体を兼包した故事、日録、史的雑録または隋録類だが、その内容はどこまでも朝廷と軍国に関するもので、故実の考証と読史者の参稽に貢献するものであると言えよう。

 このような視覚からここに収集された資料をよくみると、政事及び軍国に関係する各種の故事、日録、隋録、暗行御史類、政党記事、公職者日記等、その種類が実に繁多である。その他にも倭寇構覺(見ではなく夏)始末、東学記事、関西討賊記、観察営日記等が添えられていて、その種数は何と30種余りに至っている。そのうち、特に東学人布告文、啓草、営奇、京奇、闕甘謄書、甘結、暁諭文、官報、詔勅、訓令、報告書、崔時亨(チェ・シヒョン)裁判記録等を隋録形式で集めた東学党啓本は(図3参照)東学研究の貴重な資料となるだろう。

 
図3 東学党啓本 筆写本


 外紀類は外国使臣たちの紀行だが、これには中国に進賀兼謝恩使として行って来た官吏と日本に通信使として行って来た官吏たちの紀行が、何種も収集されている。その中には仁祖(インジョ)の時、進賀兼謝恩使として行った一行の記録である飲氷録と仁祖12年(1634)世子冊封詔使遠接一行の紀行である西行記をはじめ、金昌業(キム・チャンオプ)の燕行日記、憲宗朝都政紀略と李三隠(イー・サムン)の観華誌、そして日本に往還した日記である東槎録と日観記等が入っていて、史料として参用できるだろう。

 地図類では彼我万里一覧図をはじめ堪輿図、左海輿誌、青邱全図、海西地図、山南輿図等が収集されていて歴史と地方史、そして文化遺蹟研究に大きく参用できるだろう。

 彼我万里一覧図はわが国の咸鏡道、平安道(ピョンアンド)及び中国と接境を成す辺境一帯を描いた地図だが、尹文粛(ユン・ムンスク)公定界碑と穆克登壬辰年定界碑の位置が全く異なる点が注目される。この地図は図中に『康煕末年最憂黒竜江以北』の記事がある点から推してみて、それ以後の18世紀に作図されたものと思われる。

 堪輿図は中国一統地図、朝鮮全図に続き、畿旬(日ではなく田)、湖西、湖南、嶺南、海西、関東、関西、関北地図及び都城三軍門分界之図等が水墨淡色で描かれている。嶺南地図をよく見ると英祖43年(1767)に「安陰」を「安義」、「山陰」を「山清」と改称したが、その旧称がそのまま表示されており、都城三軍門分界之図を調べると(図4参照) 英祖30年(1754)に「毓祥廟」を「毓祥宮」と、英祖36年(1760)に「慶徳宮」を「慶煕宮」と改称したが、それぞれその旧称が表示されている。ところが一方、この分界之図に英祖30年(1754)洗剣亭附近に移転した「摠戒庁」の位置に「摠衛営」が表示されている。「摠戒庁」を憲宗12~15年(1846~49)に「摠衛営」と直して呼んだことがあるところから問題が提起される。

図4 堪輿図の都城三軍門分界之図であり、毓祥廟・慶徳宮と表示されているが、
洗剣亭附近に移転した「摠戒庁」の位置に摠衛営と表示されている。


 上の色々な事実を綜合的に考察すれば、この堪輿図は憲宗年間に英祖前期以前の地図を基に描きながら、「摠戒庁」だけは改称された「摠衛営」に直して表示したようだ。要するにこの地図は18世紀から19世紀前期の文化遺蹟と地名沿革の変遷を調べるのに重要な資料と言えよう。

 左海輿誌は天下図、中国図、漢陽都城図、錬戒台図、北漢山城図(図5参照)、都城錬戒台、北漢山城合図、南漢山城図、江華府図、京江附臨津図、八道関防摠図、京畿道図、慶尚道図、忠清道(チュンチョンド)図、全羅道図、江原道(カンウォンド)図、黄海道図、平安道図、三南防海図、日本疏(琉の間違いか?)球両国図等が彩色筆写されている。その内、漢陽都城図をよく見ると英祖36年(1760) 「慶徳宮」を改称した「慶煕宮」の名称が使われているから、それ以後に描いた地図で、その頃の文化遺蹟と故実を研究し考証するのに緊要な資料と言えよう。

図5 左海輿誌の北漢山城図である。
同誌の漢陽都城図に慶煕宮の改称が表示されている。


 青邱全図は道別に描かず地形別に互いにからみ合い、全道を水墨淡色で描き、都城門坊に継いで沿革考異、結戸摠数、地方土産等を記入している。名称の中に毓祥宮、慶煕宮、摠衛寺、山清、安義等の表示がある点から推して、19世紀に描かれたものと思われる。やはりその頃の歴史地図として緊要に活用されるであろう。

 海西地図は海州、黄州牧、本営、安岳全図を5幅に分けて水墨淡色で描いた黄海道の地図である。本営図に「康煕57年(粛宗44、1718)合所江鎮陞設水営而改称水軍節度使兼甕津郡都護府使」の記録と安岳全図に「粛宗朝十年甲子(1684)移信川郡中営将於本郡設独鎮又置中軍一員後三十四年乙亥兼討捕使」の記録から推して、攷粛宗朝以後の18~19世紀の作図と思われる。

 山南輿図は慶尚左・右道の彩色地図2幅であり、地名に安義が表示されている。安義は上で言及したように英祖43年(1767)に安陰を改称したものなので、この地図もまたそれ以後の18~19世紀に描かれたと思われる。

 上で列挙した地図類は珍しいわが国の歴史地図で、無くなった地方の古蹟、文化遺蹟及び地方史研究において貴重な資料としての役目を果たすのは勿論である。

 正音類においては経世音韻が稀貴資料として指折られる。その具名は経世訓民正音であり崔錫鼎(チェ・ソクチョン)(1646~1715)の著述である。現在まで知られたところでは、これが唯一本のようだ。(図6参照)この本には博物典彙と遼東辺図・蘇州辺図が付いているが、後者の辺図は使臣たちの中国紀行を分析的に研究するのに、考証的な地図資料になるだろう。

図6 崔錫鼎(1646~1715)著述の経世訓民正音 筆写本


 最後に紹介する詞曲類としては三家楽府の筆写本を挙げられる。国漢文で書かれた小楽府、続楽府、続小楽府が収録されていて、他の目録からはそう見つからない稀覯資料である。
本文庫の筆写本で特記するべき原資料、稀覯資料、参用資料は大体、以上の通りだ。

Ⅳ 刊印本の版種頒賜鈐印別分析

 刊印本は木板で刊行した本と活字で印行した本を摠称したものである。これら刊印本は活字本が130種余り、木板本が140種余りだが、その内活字本には壬辰乱以前の朝鮮朝前期に該当する活字本とその翻刻本(図7参照)若干を除けば、すべて壬辰乱以後の朝鮮朝後期に印出した活字本である。これを表にして作成すると以下の通りだ。

名   称 種 数
甲寅字(1434鋳造)印本〔翻刻〕
乙亥字(1455鋳造)印本〔翻刻〕
癸丑字(1493鋳造)印本
癸丑字(1493鋳造)印本〔翻刻〕
訓錬都監字(17世紀前期製作)印本
訓錬都監字(17世紀前期製作)印本〔翻刻〕 
戊申字(1668鋳造)印本
顕宗実録字(1677鋳造)印本
初鋳韓構字(1677頃鋳造)印本
後期芸閣印書体字(1723以前鋳造)印本
壬辰字(1772鋳造)印本
丁酉字(1777鋳造)印本
丁酉字(1777鋳造)印本〔翻刻〕
再鋳韓構字(1782鋳造)印本
初鋳整理字(1795鋳造)印本
初鋳整理字(1795鋳造)印本〔翻刻〕
整理字体鉄活字(1800以前鋳造)印本
全史字(1816鋳造)印本
甲辰字体本活字印本
整理字体木活字印本
印書体木活字印本
筆書体木活字印本
全史字体木活字印本
石印版本
油印版本
2
1
1
3
1
1
7
4
6
23
1
1
3
6
3
2
7
18
1
2
16
8
3
1
3
134


図7 壬申乱以後である17世紀前期の乙亥字翻刻板 東文選


 1966年筆者が活字本を講堂に陳列し、実物を提示しながら講演した時には河合文庫の活字本の中で最も古いものが、世宗16年(1434) 鋳造の初鋳甲寅字で印出した真西山読書記 乙集 上 大学衍義 第23~43巻 10冊(登録番号 120255、分類記号1~66タ)だった。紙質が上品な藁精紙であり、印刷が精巧で大きく組板印刷され、本が実に立派で美しかった。今回調査してみたら、その初鋳甲寅字印本の行方が杳然として惜しく感じた。

 その代り、一般古典の中から安平大君瑢の文字を字本として鋳造した庚午字で刷った歴代兵要第1~3、5~7、8~10、11~13巻の12冊を探し出して確認したのは大きな収穫だった。この庚午字印本は国内外に亘って、これが唯一本という点から、その価値がより貴重に評価される。

 河合文庫所蔵の現存活字印本の内、特記するべきは癸丑字印出の『東国輿地勝覧』第1~10、14~23、27~30、36~37、51~52巻の10冊である。わが国ではソウル大学校図書館ガラム文庫にやっと零本1冊(ガラム古貴915.5N659d)が見られるだけである。東国輿地勝覧は成宗(ソンジョン)9年戊戌(1478)正月に梁誠之(ヤン・ソンジ)らが大明一統志の体裁を真似て撰進した新撰八道地誌に盧思愼(ノ・サジン)、姜希孟(カン・ヒメン)、徐居正(ソ・コジョン)、成任(ソン・ニム)、梁誠之、鄭孝垣(チョン・ヒョハン)ら19人に下命、東文撰等に収録された詩文を添入して成宗12年(1481)に50巻を編成させたもので、これが同王17年、そして燕山君(ヨンサングン)5年(1499)にくり返し改修を経て同王8年(1502)に癸丑銅活字で印出したものに該当する。この東国輿地勝覧はその後、中宗(チュンジョン)25年(1530)に李荇(イー・ヘン)らが増補して癸丑銅活字で再び刷り出し、書名を新増東国輿地勝覧と付けたが、今日ではこの印本でなければその翻刻本だけが伝来されている。したがってその先印本はほとんど見ることができず、それらの差異を比較研究する途が無かった。幸いにも河合文庫蔵書から

   「弘治十五年(燕山君8、1502)二月 日
    内賜成均館司成権鈞
       輿地勝覧一件
    命除謝
    恩 
                  右承旨臣申(手決)」

の頒賜記が墨書され、巻首に「宣賜之記」が刷られた初撰本が、例え落帙であっても何と10冊も現れたのだから大きな収穫と言わざるを得ない(図8参照)。初撰と新増内容の具体的な比較研究は勿論、稀罕な朝鮮朝前期銅活字本としても、その価値が大きく評価される点から注目される。この文庫には初撰本以外にも中宗25年(1530)に李荇の癸丑字版の新増東国輿地勝覧を翻刻した板本が、未完帙だが3帙34冊が所蔵されている。
 木板本は壬辰乱以前の刊本がやっと7種程で、その他はすべて壬辰乱以後である朝鮮朝後期の刊本である。壬辰乱以前の刊本としては世宗14年(1432)に成達生(ソン・ダルセン)筆書本を基に刊行した小字本、大仏頂如来密修証了義諸菩薩万行首楞厳経をはじめ大蔵一覧、妙法蓮華経、金剛般若波羅蜜経、真言集等の仏書であり、その他では中宗9年(1514) 刊行の三国史記と権近撰である応制詩の翻刻があるのみである。

図8 燕山君8年(弘治15年、1502)
成均館司成権鈞に頒賜された癸丑字板 東国輿地勝覧


 壬辰乱以後である朝鮮朝後期の板本の内、特記するべきは3種の稀覯書である。そのひとつは俗楽歌詞、歌詞及び雅楽歌詞を対訳して合刻した詞曲類である(図9参照)。他の蔵書目録からはほとんど見つからない罕伝資料だ。

図9 朝鮮朝後期刊行の木板本
俗楽歌詞・歌詞・雅楽歌詞・合刻国漢文詞曲類中歌詞 二曲


 二番目に挙げるのは竜飛御天歌10巻5冊の完帙本である。正統10年(世宗27、1445)4月の鄭麟趾(チョン・インジ)の序と権踶等上箋があり、正統12年(世宗29、1447)2月の崔恒跋(チェ・ハンバル)が出した初刊本の翻刻だが、板刻が精巧で印刷が綺麗であり巻首に「宣賜之記」という宝印が押されている(図10参照)。ソウル大学校奎章閣(キュジャンガク)所蔵の同板本を調査してみると「萬暦四十年(光海君(クァンヘグン)4、1612)内賜太白山」の内賜記録がある。この本も光海君4年(1612)に翻刻したということが分かり、現伝の竜飛御天歌としてはこの時の刊本が善本に選ばれる。

 
図10 光海君4年(萬暦40、1612)に
正統12年(世宗29、1447)2月の崔恒跋がある初刊本を翻刻した龍飛御天歌


 三番目に挙げるのは海左全図木板本である。水墨淡彩地図で周囲に道州県邑数、道・地名・山・島・寺・亭等の沿革と土産等が記録されている。地図には道界が区画され、道庁所在地、主要地名が具体的に表示されている。咸鏡道の沿革説明文に「純祖22年(1822)置厚州」の表示があるので、それ以後の19世紀に板刻されたことが分かる。既に上の筆写本で掲げた色々な地図類と共に、わが国の地域発達史の研究は勿論、歴史と文化史研究において有用な歴史地図として役立つだろう。

 刊印本の中では朝鮮朝官吏に下した頒賜本が15種も入っていて、名門各人たちの所蔵印が押された家宝の手沢本が多様に入っているように、その蒐集が広範囲に成されていることも、本文庫が持つ特徴のひとつになるだろう。

本文庫の蔵書に含まれている頒賜本を頒賜年順に列挙すると、次の通りだ。
  1) 東国輿地勝覧 癸丑字板 燕山君8(1502)印.
    弘治15年(1502)2月 日 成均館司成 権鈞 内賜・・・・・
  2) 竜飛御天歌 木板 光海君4(1612)刊.
    宣賜之記 [奎章閣本 : 萬暦40年(1612) 内賜 太白山
  3) 攷事撮要 戊申字板 粛宗1(1675)印. 
    康煕14年(1675)正月29日 弘文館 副修撰 
    李夏鎮(イー・ハジン)内賜・・・
  4) 東文選 顕宗実録字版 粛宗37(1711)印. 
    康煕50年(1711)7月25日 行判中枢府事 
    李頤命(イー・イミョン)内賜・・・(図11参照)
  5) 勘乱録 顕宗実録字版 英祖5(1729)印.
    雍正7年(1729)11月12日 内賜 鎮安県・・・・
  6) 璿源系譜紀略 木板 英祖11(1735)印.
    雍正13年(1735)4月26日 貞正翁主 長波幼学
    柳慶胤(ユー・ギヲンユン) 内賜・・・・
  7) 続明義録 壬辰字版 正祖2(1778) 印.
    乾隆43年(1778)3月初10日 承政院 同副承旨申応顕 内賜・・・・
  8) 加髢申禁事目 丁酉字版 正祖12(1788) 印.
    「宣賜之記」内賜古阜郡守.
   9) 礼疑類集 芸閣印書体字版 正祖16(1792) 印.
    乾隆59年(1794)10月初4日 検校直閣 南公轍(ナム・ゴンチョル) 内賜・・・・ 
  10) 朱書百選 丁酉字版 正祖18(1794) 印.
    乾隆59年(1794)12月 日 検校直閣 南公轍 内賜・・・・ 
  11) 陸律分韻 初鋳整理字版 正祖22(1798) 印.
    嘉慶3年(1798)7月 日 原任直閣 南公轍 内賜・・・・ 
  12) 御定奎章全韻 木板 高宗5(1868) 刊.
    同治7年(1868)3月 日 人日製賦次上進士
    沈相学(シム・サンハク) 内賜・・・・   
  13) 弘文館志 全史字版 高宗18(1881) 印.
    光緒7年(1881)10月 日 
  14) 斥邪綸音 壬辰字版 高宗18(1881) 印.
    光緒7年(1881)10月 日 前府使 趙儀顕 内賜・・・・
  15) 禽院條例 再鋳整理字版 高宗28(1891) 印.
    光緒17年(1891)11月 日 承言色 金圭復(キム・ギュボク) 内賜・・・・

図11 粛宗37年(康煕50、1711)7月に
行判中枢府事李頤命へ頒賜された顕宗実録字版東文選


 名門各人の所蔵印が捺印された家宝の手沢本の内、特記することは金陵南公轍(1760~1840)の鈐印である「宣陽世家」、「南公轍印」等が押されたものが最も多いという点だ(図12参照)。その手沢本の書名、版種、刊印事項は次の通りだ。

  1) 礼疑類集 後期芸閣印書体字版 正祖16(1792) 印.
  2) 沙渓先生年譜 木板 正祖16(1792) 刊.
  3) 晩洲遺集 木活字版 正祖17(1793) 印.
  4) 奎華名選 再鋳韓構字版 正祖17(1793) 印.
  5) 朱書百選 丁酉字版 正祖18(1794) 印.
  6) 雅亭遺稿 後期芸閣印書体字版 正祖20(1796) 印.
  7) 陸律分韻 初鋳整理字版 正祖22(1798) 印.
  8) 石堂遺稿 木板 純祖4(1804) 刊.
  9) 東省校余集 初鋳整理字版 純祖14(1814) 印.
  10) 続近思録 筆書体木活字版 純祖19(1819) 印.

図12 純祖14年(1814)印出の初鋳整理字版
東省校余集に南公轍印が押されたその手沢本


 南公轍は経典を広く読破し詩文に才能を示す学者出身の官吏として、早くから成均館大司成吏判、礼判を経て、右・左・領議政の最高官職をみな歴任し、奎章閣の直閣・提学を兼任しながら典籍に関心を持ち、著述に力を注ぎ自著の詩文集である金陵集をはじめ、改編の帰恩堂集、穎翁続稿、穎翁再続稿を出した。のみならず彼は自著を出版するために「金陵聚珍字」という木活字を作り、先に著述した金陵集に続き、帰恩堂集を印出し、友人の著書まで刷って上げた。

 その活字は字体の筆画の彫りに屈曲上向性が表れている独特な筆書体字であるのが特徴で、その中で初の自著である金陵集は、当時流行した中国聚珍版の風に見習って中国の冊子である竹紙を使い、中国式の装訂法で粧冊までした。

 このように文士出身の官吏として本を著述し、好んで集書したが鈐印が押されてない本の中でも、彼の手沢本が少なくないと思われる。

 その次に特記するべきは東史綱目の著者(図13参照)である安鼎福(アン・ジョンボク、1712~1791)の橡軒蔵書の内、一部の伝来だ。彼の蔵書印が押されたものとしては、次の3種があることを確認した。
 
  1) 朱子増損呂氏郷約 乙亥字翻刻板 [壬辰乱前後]刊.
  2) 正気録 木板 仁祖9年(1671) 刊. 
  3) 忘憂堂先生別集 木板 英祖47年(1771) 刊.

図13 順庵 安鼎福(1712~1791)著述の東史綱目 筆写本


 橡軒蔵書も所蔵印が押されてないものが多く、その性格が表面にはよく表れていないが、その蔵書の特徴のひとつは実学史観に立脚した実証的史料の蒐集が中心だったことが窺える。朱子増損呂氏郷約は中宗朝の時、飜訳され広く実行されていた郷里の儒教的慣行を調べるのに必要で、正気録は壬辰乱の時、光州で義兵を募集し、引率して錦山に進み倭敵と戦って散華した高敬命(コ・ギョンミョン、1533~1592)三父子の殉節、そして忘憂堂集もまた壬辰乱の時、天降紅衣将軍として倭敵を退ける功を立てた郭再祐(クワク・チェウ、1552~1617)の偉績をそれぞれ顕彰するのに必要な、実証的な資料と言えよう。

 橡軒蔵書のもうひとつの特徴は、順菴が元々貧しい学者で、本を買うこともできず、他人のものを借りて写し書きして勉強し研究したので、筆写本の所蔵比率がとても高かったことを挙げられる。ここにあるこの文庫の筆写本からも、精査すれば彼の筆蹟を少なくなく選び出せることと思われる(図14参照)。

図14 橡軒蔵書の筆写本 国朝記事


Ⅴ 結びに

 以上で河合文庫の原資料、稀覯資料及び研究に参用できる資料を筆写本と刊印本に分けて考察し、併せて名門各人に下賜された頒賜本と所蔵印を押し、家宝としてとても大事に扱われて来た祖先たちの手沢本に対しても言及した。

 これらの大事な資料と名門大家の貴重な手沢本が万里異域に売られ、別に利用もされないまま埃が積って黴臭く、ひどく虫に食われ、本の冊子何枚かめくると手が真っ黒になり、埃と虫喰った粉塵が飛び口に入って来るので、しょっちゅう手を洗い、水で喉の奥までうがいせざるを得なかった。それも一般人は一日前までに日本人学者の保証を得て、申請して初めて閲覧が可能だった。

 われわれが責任取ろうにも、われわれが自由に見ることもできず、このように難しくて面倒な状態のまま、ほとんど死蔵されているのだから、残念で堪らない! これらの貴重な資料が国内の図書館や文庫に所蔵されていたら、どれ程便利に使い易く利用できることか。思えば思う程、代を継いで大事にしまって来た家宝を、安価で売り払った後裔たちの素行が恨めしくてならない。今では仕方なく、必要な本だけを影印複製することだけでも、一日も早くなされなければならない(’92.2.25)。


参考: 藤本幸夫「朝鮮の印刷文化」『静脩』(京都大学附属図書館)Vol.39 No. 2、2002年8月。