利川五重石塔の移送経緯

 利川五重石塔の朝鮮から日本への移送は、植民地政府であった朝鮮総督府から日本の私設博物館である大倉集古館へ、下付(下げ渡す)という形で行なわれた。売買によって大倉集古館が石塔を購入したのではなく、植民地政府が与えたものであった。

 移送の経緯は、韓国国立中央博物館に残されていた朝鮮総督府の文書によって、たどることができる。


 まず、大倉集古館理事の阪谷芳郎が朝鮮総督府に、平壌停車場前にある六角七重塔を譲り受けたいと、石塔下付の書簡を1918年7月21日に朝鮮総督府に送った。
 某大学教授の意見によると、この石塔が集古館に移設した資善堂に相応しい古塔だという理由を付記していた。

 資善堂とは景福宮にあった李朝王室の皇太子が使用していた建物で、景福宮で物産共進会が開催される1年前の1914年に解体されて大倉邸に移された。さらに1917年に集古館へ移築されて「朝鮮館」になったという。
 つまり王宮にあった由緒正しい建造物を入手した集古館は、さらに、それに釣り合う名塔も入手したかったのである。

大倉集古館理事阪谷芳郎書翰写
粛啓炎暑之候愈御清栄被為渉奉恭賀候
陳者過日ハ参上久々ニテ種々御高話拝聴難有奉
存候其節大倉男爵ノ依頼ニヨリ大倉集古館敷
地内ヘ建設ノ目的ヲ以テ朝鮮ニ於テ歴史アル古石塔
壹基御譲受申度儀内願仕候処其後大倉男爵
ヘ御内示ノ趣モ有之其選定方ヲ専門ノ某大学教授ニ
依頼致候処先年集古館敷地内ニ移設シタル景福
内ノ建物資善堂ノ傍ラニ相応セルモノハ平壌停車場
前ニ有之候六角七重石塔ガ最適当ナラント申サレ候
ニ付早速京城原勝一ヨリ総督府ノ御掛ノ方ヘ直接願出
候様申遣置候間何分宜敷御含願上候幸ニ御聞済
被下候ハバ前記建物卜共ニ東都ニ於テ朝鮮ノ古建
築物ヲ研究スル資料ノ一端トモ相成可申学術海
ニ裨益ヲ与フルコト尠少ナラサルコトヽ存候
右御願迄得芳意候敬具

    大正七年七月廿一日  阪谷芳郎

長谷川伯爵閣下



 大倉集古館からの申し出を受けて、総督府内部で討議が行なわれた。
 その討議によると、平壌停車場にある石塔は1908年から設置され、熟知されているので、移転は不適当である。年代および製作でこれに相当するものは朝鮮で保存する必要があるとして、代用物を与えることにした。

 施政五年記念共進会の際に利川郡邑内面から移転し、現在博物館本館前にある石塔は、廃寺跡にあったもので歴史上の考証に値しない。形状も佳良と称するほどでなく、博物館で保存するほどの価値はないとした上で、譲り渡す目的物を変更させて、その塔の譲渡を許可することにした。

※大正七年十月三日
議案
石塔譲渡ノ件
東京大倉集古館資善堂(景福宮ヨリ移ス)ノ傍ニ建立シ
考古ノ資料ニ供スル目的ヲ以テ平壌停車場前ノ七
層石塔ヲ譲受度旨別紙ノ通同館理事阪谷芳郎ヨ
リ願出アリタルモ右ノ石塔ハ明治三十九年停車場設置ノ
時ヨリ今ノ地ニ在り人ノ熟知セルモノナルヲ以テ之ヲ他ニ移スコ
卜適当ナラス仍テ之ニ代ルヘキ石塔ヲ詮索シタルニ年代及
製作ノ相当スルモノハ皆歴史及工芸ノ参考トシテ朝鮮ニ
保存スル必要アリ保存ノ必要ナキモノニ至リテハ孰レモ形状倭
小ニシテ製作亦劣等ナリ然ルニル曩ニ施政五年記念共進会
ノ際京畿道利川郡邑内面ヨリ移転シ現ニ博物館本館前ノ
空地ニ在ル別紙写真ノ五層石塔ハ高十八尺七寸基経七尺製作
中等ニシテ高麓末期ニ属シ(石塔トシテハ時代近キモノナリ)略ホ願出ノ趣旨ニ副フ
モノ卜云フコトヲ得ヘシ而シテ一方ヨリ之ヲ考フルニ其ノ原所
在地ハ利川郷校前ノ畑中ニシテ廃寺址ナルコト疑ナキモ寺名
詳ナラス何等歴史上ノ考証ニ値セス又塔ノ形状ハ普通ニ見ル
方形五層ニシテ製作上特異ノ点ナキノミナラス未夕以テ佳良卜
称スルニ足ラス且頂上ノ装飾ヲ失ヒ殊ニ基壇及第一層ノ高サ
著シク延長シ屋蓋ノ広サ亦全体ノ高サニ対シ権衡ヲ得ス一
言ニシテ之ヲ評セハ他ニ来歴アリ又優秀ナル石塔多キ朝鮮ニ
於テハ特ニ博物館ニ保存シ陳列物ノ一ニ数フルコト寧ロ適当ナラ
サルノ感アリ蓋シ共進会ノ際ニハ唯各地ニ存スル多クノ石塔中
移転ニ便ナルモノ数基ヲ択ビ朝鮮ニ年代ヲ経タル石塔多キコ
トヲ示シ兼ネテ会場ヲ装飾シタルニ過キス故ニ今日ニ至り博物
館ノ陳列物件トシテ其ノ価値ニ乏シキハ亦巳ムヲ得サル所ナリ
以上ノ如キ事情ナルヲ以テ大倉集古館ニ対シ其ノ目的物ヲ変更
シ更ニ願出セシメタル上右五層石塔ノ譲渡ヲ許可スルコト機宜ノ
処置ナリトス
右ニ対スル御意見承知致度候也



 討議の結果を受けて、平壌停車場前の石塔ではなく、現在博物館本館前にある石塔を選んだこと、そして写真を同封して、改めてこの塔を願い出るようにと、総督府総務局から大倉集古館へ伝えられた。

大正七年十月九日執行
大正七年十月八日起案
総督   古跡調査委員会幹事
  政務総監
    総務局長   総務課長

件名:石塔譲渡ニ関スル件
総務局長 荻田悦造
大倉集古館理事 (東京赤坂霊南坂)
阪谷芳郎 宛

半公信

拝啓愈御清祥奉賀候陳者先般御管理
大倉集古館敷地内ニ建設セラルヘキ石塔ノ件ニ関シ総督
ヘ申出有之詮議致候処平壌停車場前ノ塔ハ他ニ
移転シ難キ事情有之詮索ノ結果現ニ本府博物館内ヘ建
立セル別紙写真ノ石塔ヲ選定致候間此分御願出ニ相成候ハ
ヽ許可可相成見込ニ有之候此段得貴意候
  追テ前文石塔写真一葉同封申上候間御覧済ノ上ハ御
  返却被下度申添候


 朝鮮総督府から連絡を受け、大倉集古館は改めて利川にあった石塔下付を願い出た。

朝鮮古石塔壹基御下付願

一古石塔 壹基
  但総督府博物館内ニ建設シアルモノ

右ハ東京ニ於テ朝鮮古代建造物ノ実物ヲ弘ク公衆ニ示シ専門家
ノ研究資料ニ供シ候ヘハ学芸上ハ申スニ及バス新ニ合併ニ係
ル国民間ノ同化親交ヲ増進スル上ニ於テ不尠利益有之候コト
ヽ信シ候就テハ先年本館内ニ元景福宮内ニ在リシ資善堂
ノ建物ヲ移築致候処更ニ博物館内ニ在ル古石塔壹基御下付ヲ得
テ右資善堂ノ傍ラニ移築シ前陳目的ノ一端ヲ達シ候様致度何
卒願意御聞届被成下度此段御願申上候也

大正七年十月
財団法人大倉集古館
理事 男爵 阪谷芳郎

朝鮮総督伯爵長谷川好道殿


 改めて大倉集古館から提出された下付願いを受け、総務局は下付の手続きを始めた。こうして利川の石塔は、1918年11月に日本に移送されることになったのである。

総督ニ報告ヲ要ス
大正七年十一月十三日
大正七年十月二十四日起案  関係番号 総第四〇八号

    主務 部長官  総務局長 萩田 総務課長  主任
総督 不在     古跡調査委員会幹事 小田
  政務総監   会計課長
     総務局長    総務課長
  
件名 石塔下付ノ件
総務局長

大倉集古館理事男爵阪谷芳郎宛
大正七年十月付ヲ以テ願出相成候本府
博物館前庭陳列ノ石塔(京畿道利川郡郷教前廃寺址)壹基貴館ヘ
下付ノ件聴許相成候条御諒知相成度此段依命及
通牒候也
  追テ右石塔移出ニ関シテハ仁川税関ヘ及通牒
  置候為念申添候也

   第二案
    石塔移出ニ関スル件
          総務局長
    仁川税関長宛
今回本府博物館前庭陳列ノ石塔壹基大倉集
古館ヘ下付相成不日移出ノ筈ニ候条諒知置相成
度此段及通牒候也

備考 大倉集古館ハ古物ヲ蒐集シテ一般観
客ノ為ニ公開スルモノニ有之朝鮮石塔ノ下付ハ是
等観客ラシテ朝鮮古美術ヲ研究セシムニ恰適ナ
リト認ム