お正月特別企画「温泉の科学特別コラム」

温泉の化学特別コラム

古代の文献にある温泉
byやませみ

◆日本でいちばん古い温泉地はどこか? といった話題がときどき出ます。もちろん、自然湧出の温泉のいくつかは、日本人が文字を覚える以前からすでに湧き出ていたことは考古学や地質学の研究から明らかなので、「最古の」などという議論自体があまり意味をもちませんが、一応、文書にその名が登場したときを最初として見てみましょう。

わが国初の公式な歴史書(正史)は、有名な「日本書紀」で、この中では歴代の天皇が各地の温泉に行幸されたことが記録されています。天皇の温泉行は、療養というよりも「湯垢離・ゆごり」という宗教的行事が主な目的だったようです。最も早いものでは舒明(じょめい)天皇(629-641)が、有馬温泉と道後温泉に行幸したということが書かれています。

これ以前には、正史ではありませんが、「伊豫国風土記逸文」というのには596年に聖徳太子が僧恵慈らを従えて道後温泉に来浴したという文があり、これが最も古い温泉の記録だとされています。原文は残念ながら残っていません。


◆日本三古湯というのが歴史ある温泉地の観光パンフによく見られますが、有馬と道後の2湯は疑いなしとして、はたして3番目はどこでしょうか? ここに草津や下呂を入れている文章を見かけますが、どちらも歴史に登場してくるのはずっと後のことで、地理的位置からいってもどうやら白浜温泉とするのが正しいようです。

白浜温泉の歴史が古いことはなぜかあまり知られていませんが、日本書紀に登場する「牟婁(むろ)の湯」「武漏の湯」というのが白浜温泉にあたる、というのは確実なようです。大化改新の後まもなく、有馬皇子(640-58)が斉明天皇と中大兄皇子(のち天智天皇)に牟婁の湯への行幸を勧め、その間に謀反を企てたという冤罪で自殺に追い込まれたのは658年のことです。あまりいい話ではありませんが、今も往古ののままだという露天風呂が海岸に湧いていて、「日本最古の露天風呂」と称されています。


日本の古湯はべつに3つに限定しなくても、4つでも5つでもいいわけですから、次点候補を見てみます。

大伴家持(おおとものやかもち)が編したという「万葉集」は、奈良時代に作られた日本最古の一大国民歌集で、上は天皇から下は一般庶民にいたるまで、各階級の人々の歌が収録されています。約4500あまりの歌の中には、現代にも残る温泉地名がたくさん登場してきますが、温泉が湧き出る様子を表しているのは、ただの1首のみです。

あしかりのとひのかふちにいづるゆの よにもたよらにころがいはなくに(巻十四)

原文はぜんぶ平仮名なのでちょっと意味不明ですが、これを歌人の佐々木信綱氏は、

足柄の土肥の河内に出づる湯の よにもたよらにころが言はなくに

と読みなして、これは湯河原温泉を表したものだという考証が定説になっています。往古にはいまの熱海から箱根にかけてを土肥郷と呼んでいたのです。湯河原温泉ではこれにあやかって「万葉の湯」と称し、温泉地全体のイメージ作りにはげんでいます。

歌の意味は難解ですが、例として、
「湯河原の温泉が夜となく昼となくこんこんと河原から湧いているが、その温泉が湧き出るような情熱で、彼女が俺のことを思ってくれているかどうか、はっきり言ってくれないので、毎日仕事が手につかないよ」という解釈があります。


◆さらに時代は下がって、平安朝の随筆の名著「枕草子」には、好ましい湯として「七久里(ななくり)の湯、有馬の湯、玉造の湯」と書かれています。この七久里の湯は別所温泉のことだとされるのが一般で、信州の鎌倉とも称される風情はいかにもそれに合っているように見えます。

いっぽうでは、清少納言が遠い信州まで旅行したとは考えられないので、湯の峰温泉のことだという説も有力です。湯の峰温泉は熊野古道に湧く名湯で、平安貴族は熊野神社に参詣するのが慣例になってましたから、清少納言もたぶん入湯したものと考えられますが、公式な記録はないようです。


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