お正月特別企画「温泉の科学特別コラム」

温泉の化学特別コラム

温泉と文人 byやませみ

歴史の古い温泉地の老舗の宿に泊まると、明治・大正の文人の足跡が何かしら有るものです。温泉地に来る観光客のなかには、文人のゆかりを訪ねる人も少なくありません。なかには「文豪○○先生執筆のお部屋」が当時のまま保存されていて、宿の名物になっていたり、有り難いことには、同じ部屋に泊まれたり同じ風呂に浸かったりもしてしまいます。温泉と文人は、梅にウグイス、鴨にネギ、みたいに相性の良いものだったようです。では、文人は温泉のどういうところに魅力を感じていたんでしょうか?。

文人と温泉の関係について、温泉通としても有名な嵐山光三郎氏が、「温泉旅行記(ちくま文庫)」という作品で、「なぜブンジンは温泉にはまったか」という文中で分析していますのでちょっと引用してみます。(無断拝借で恐縮ですが、本の宣伝だと思って許して下さい。)

嵐山氏いわく、文人がとかく温泉に出かけるわけは、
1) 原稿を書く静かな環境をもとめて、 2) 温泉が執筆で疲れた脳をいやしてくれる、 3) 愛人がときどき泊まりに来てくれる、 4) 芸者とねんごろになる、 5) 芸者をモデルにする、 6) 新婚旅行で温泉に行く、 7) 恋人をくどくため呼び出す、 8) 地方の旦那集に招かれて、 9) 温泉場で遊ぶのがが好き(享楽派)、 10) 温泉の湯や旅が好き(純温泉派)、 11) 持病の治療、 12) 妻から逃亡、など。1)と2)は文人らしい理由でもっともですが、それ以下はあんまり真面目な温泉客とはいえないですね。

文人が温泉に求めた第一の理由は、その非日常性にありました。明治期にはまだ電話など普及していなかったので、用の有る無しにかかわらず、どこの家でも来客が絶えなかったようです。とくに著名な文人の家はサロンのようになっており、たいへん賑やかだったそうで、夏目漱石の家など、勝手に上がり込んだ友人達が夜中まで宴会を催すので、夫人が追い返したという話が伝わっています。これでは落ち着いて著作に没頭するなど出来っこないので、温泉宿に逃げ込んだわけです。

温泉地の非日常性は現在ではだいぶ薄れましたが、明治期には文明化の進んだ都会と、未だ江戸期の風情や慣習の色濃い田舎の温泉地とでは落差が大きく、作品のモチーフや舞台に格好の題材を提供していたようです。私たち凡人でも、温泉に行くといつになく絵画や陶芸に興味をもったり、名作文学を読みたくなったりしてしまいますが、温泉の効能にはなにやら創作意欲を活性化させるような作用があるみたいです。こんなところも文人をおおいに惹きつけていたんでしょう。



温泉ゆかりの文人といえば、まず第一に夏目漱石がすぐに思い浮かびます。松山の道後温泉は聖徳太子も来浴したという記録がある日本最古の名湯ですが、明治以降の隆盛には漱石の「坊ちゃん」の人気に負うところが大でしょう。漱石が松山中学の教師に在任したのは明治28年から1年4カ月で、下宿から毎日温泉に通っていたのは「坊ちゃん」そのままでした。その前年に共同湯「道後温泉本館」が今も残る三階楼の形に改築されたばかりの時期です。

漱石は作品の中で道後の湯はおおいに誉めていますが、松山の町や人々のことはさんざんにこき下ろしています。それでも松山の人は怒りもせずに「坊ちゃん」を町のシンボルとして大切にしており、最近、松山の駅舎も明治風にリニューアルされたそうです。

漱石にはこのほかに、旧制第五高等学校の講師として熊本に赴任していた頃の温泉旅行が題材になっている作品があります。小説「草枕」の舞台「那古井」は、天水町の小天(おあま)温泉だといわれ、また、小品「二百十日」は阿蘇旅行で寄った内牧温泉で着想したといわれています。

東京に移ってからも漱石は温泉旅行が好きで、湯河原や塩原に滞在しています。有名な小説「吾輩は猫である」には、後半部に唐突に箱根の姥子温泉が登場してきて驚きます。

漱石は神経性胃炎からきた胃潰瘍の持病があり、明治42年には修善寺温泉に転地療養に行っています。ところがすでにかなり衰弱していた身体には逆効果だったようで、すぐに病状は悪化し大喀血のあと危篤に陥り、寝台のまま帰京しました。亡くなったのはその6年後のことでした。



川端康成は「伊豆の踊り子」を天城湯ヶ島温泉で執筆し、河津温泉を作品の舞台としました。「雪国」では越後湯沢温泉が舞台となっています。どちらの温泉も川端の作品が有名にならなかったら、今でもいわゆる秘湯のままであったかもしれません。とくに、湯ヶ島温泉には当時から川端を慕って多くの文人が 滞在し、文人の隠れ家といった静かな独特の雰囲気を今も保っています。

嵐山氏が指摘するように、文人と温泉は、漱石や川端のような幸福な関係であるとは限りません。むしろ、「温泉荒らし」とでもいうような困った存在でもあったようです。

有名なエピソードとして、太宰治と熱海温泉についてご紹介しましょう。太宰には温泉を舞台とした作品はありませんが、熱海温泉に長期逗留して仕事場のようにしていました。しかし、津軽の名家出身の太宰には金銭感覚がまるでなく、しょっちゅう金欠に陥っていたようです。そんなある時、みかねた内妻の初代が、東京の壇一男に金を持っていってくれるように頼みました。

壇が熱海に行くと、例によって太宰は壇を誘って豪遊し、持参の金をすぐに使い果たしてしまったので、壇を旅館に残して人質にし、自分は「菊池寛のところに行って金を借りてくる」と東京に出かけてしまった。ところが待てど暮らせと太宰は戻ってこないので、たまりかねた壇に料理屋の主人が見張り役について太宰を捜しに東京に行った。

さんざん探したあげく、なんと井伏鱒二の家で将棋をさしている太宰を発見した。見つけられた太宰は狼狽したが、「待つ身がつらいかね、待たせる身がつらいかね」と言ったという。結局このときの借金三百円は、一部を佐藤春夫と井伏鱒二が立て替え、残りは初代が着物を質入れして支払った。

この4年後に書いた「走れメロス」の作者とはとうてい思えないような不行状ではあるけれど、壇は後に「おそらく、自分の熱海行きがこの小説の発端じゃないかな」と語っていたという。以上はやはり嵐山氏の「文人悪食(新潮文庫)」に出ていた話で、文学界では有名な事件なのだそうです。



最後に、当の太宰が温泉を描写するとこうなる、っていう一文を引用します。

「綺麗なお湯だ、ソウダ、まるで水晶をとかしたように美しい、僕の身体を入れるのは何だかもったいない様な気がした。」「ほんとうに静かだ、僕の身も魂も湯気とともに天上に浮き立つ様な気がした。」(『温泉』より)


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