672−1.科学の過信と教育2



     とら丸
科学は無制限に発達するのではない。その時代の社会通念の制約を
受けて発達する。教育が均一化すれば、それだけ強い通念が形成さ
れることになる。

たとえば、ある学問領域で有名学者がマスコミを利用しある学説を
繰り返し放送するとする。その学説は容易に通念化する。学校は
画一的にこれを暗記式に子どもに教える。そして通念から外れる考
え方は疎外される。

科学であれ宗教であれ、それの発生時点では、すこぶる自由な空気
にあふれ、人々を感動させる。しかししばらくすると、これらに
無数の人が加わることで、組織化され活動は社会化の度合いを深め
ていく。やがて組織を守ることが活動の目的になり、かにのように
殻を作る。

現代人は言う。科学は十分に発達したと。しかしこれは科学に殻を
作ったにすぎない。そして幾重にも殻ができると社会は停滞する。
現代のように。

現状の打破、一見これは伝統と相反するかに見える。しかし実は逆
である。これら現代の殻を見抜く感性は幼児期に豊かな伝統文化に
触れて芽生えるのではないか。棟方志功が幼い頃ねぶたを見なかっ
たら?宮沢賢治が幼い頃、しか踊りを見なかったなら?

遠回りなようでも日本の繁栄を論ずるには、個人の豊かな感性を育
むことなくして語れない。これらは学校教育以前の問題である。
けして学校教育を否定するものではない。

                                           とら丸
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(Fのコメント)
江戸時代でも、読み書きソロバンを早い内に寺子屋で教えるべきと
いうのが一般的であった。読み書きの出来ない人で感性の持った人
より、理系の知識や論理力を持った人の方が、社会の需要が多い。
棟方志功のような画家は100万人に一人しか必要が無いが、会社
には多くの理系を知っている人が必要です。どちらを重要視するの
か、需要面から考える必要がある。

現代では、読み書きとパソコンは万人が知る必要がある基礎の技術
であり、科学の領域ではない。科学の最先端を教えているのは大学
の専門課程だけで、高校までは基礎の基礎のレベルですよ。それを
、中学レベルの授業や小学校のレベルの教育を科学の過信というこ
とが大きく間違えているように思うが。

それより、ここの議論でも論理力や議論の構成力がある人があまり
いない。これの方が問題であると思うが??


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