666−2.超現実主義とは何だろう



得丸
ー1ー
暑さ寒さも彼岸までという言葉を通り越して、今日はやや肌寒い。
澄んだ秋の空気が、夕方の太陽の光りを運んでくる。まだ色を変え
たわけではないのに、光のおかげでポプラの葉っぱが少し黄色く色
付いてみえる。

今日は、朝一番に富山県立近代美術館を訪ねて、開館20周年「瀧口
修造の造形的実験」展をみた。現代美術を愛し、数多くの芸術家を
育てた評論家瀧口修造は、富山県の出身だ。終戦後しばらくの間は
、私がいま住んでいるところにほど近いところにいたらしい。瀧口
はシュールレアリストの作家として、たくさんの作品も残している
。今回の展示は、瀧口のデッサンや実験的絵画が中心だ。

ニューヨーク在住の荒川修作がはじめての日本での展覧会「意味の
メカニズム」展を1979年に開いた時に、カタログの翻訳を作ったの
が瀧口であり、それが瀧口の最後の仕事となった。私が瀧口の名前
にはじめて触れたのも、荒川さんを通じてだった。
2年前に私が今の仕事を選んで、富山にくることを荒川さんに報告し
たときも、荒川さんは瀧口のことを話していた。

それもあって富山に引っ越してくる時に、瀧口の著作を何冊か古本
屋で求めてきたが、正直なところ、私の趣味ではなかった。ていね
いに読んだわけではないが、言葉に対する過剰な思い入れあるいは
酔い、頭で考えるところが多すぎて、心あるいは身体が十分に活性
化していない、、、。最近はそのような文章に出会うと、手が止ま
ってしまうのだ。

どうして足を運んだかというと、その後で、美術館の方と荒川さん
の作品について雑談をすることになっていたからだ。打ち合わせの
時間よりちょっと早く着いたので、せっかくの展覧会だから切符を
買って入場することにした。

ー2ー シュールレアリズムとは何だろう
超現実主義、シュールレアリズムと類される作品が壁にかかってい
るのを眺めながら展示室の中を歩いていると、「描いている画家が
現実存在であるときに、どうして超現実主義が描けるのだろうか」
という疑問がわいてきた。これは言い換えると、「絵画を見ている
私たちは、現実存在なのに、どうして目の前にある絵画を超現実主
義として分類するのだろうか、分類できるのだろうか」という疑問
でもある。

そして瀧口がよりすぐった作品を観ていると、結局瀧口が提示して
いるのは、現実の人間が構築した認識の枠組み(意味のメカニズム
)の中で、超現実的だと受け入れられやすいもののような気がして
きた。つまり、それらは決して超現実ではなく、超現実っぽいもの
を描いたものにすぎないということだ。似非超現実といえるだろう
か。

現実の人間が、一般に、超現実主義的だと受け止める傾向というも
のがある。たとえばそれは写実的ではなく、通常の意味のつながり
をもたないで、なんとなくぼわーっとしているような夢想的・幻想
的な雰囲気をもつものだ。瀧口は用意周到にそのようなものばかり
を集めているだけではないかと思ったのだ。

それらは概して血なまぐさく無い。それらは目をそむけたくなるよ
うなものではない。
そして、私は瀧口の絵画から現実逃避の匂いを感じた。それらは、
見るものでしかなく、全身で感じ取るものではない。

ー3ー
原民喜が「夏の花」の中で思い起こしているシュールレアリズムは
、瀧口の提示する心地よい世界とはまったく別だ。まだ地面も人間
も煙りをはなっている原爆投下直後の広島を歩いた原民喜が感じた
ものは、それまで使っていたひらがなをカタカナにかえなければ
表現しきれないと感じたシュールな現実と、瀧口の提示している
芸術との隔絶は何なのだろうかと思った。

ギラギラノ破片ヤ 灰白色ノ燃エガラガ 
ヒロビロトシタ パノラマノヤウニ 
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキメウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトカ 
パット剥ギトッテシマッタ、アトノセカイ 
テンブクシタ電車ノワキノ 馬ノ胴ナンカノ 
フクラミカタハ ブスブストケムル電車ノニホヒ 
(「夏の花」、原民喜)

戦争に負けてしまったからか、もともと日本人にそのような性向が
あったからか、わからないが、私がこれまで本を通じて出会ってき
た戦後日本の思想家や哲学者たちは、現実から目をそらして、机上
の空論ばかり話題にしてきたような気がする。現実存在と取り組む
のではなく、概念装置と戯れてばかりいたということもできるよう
な気がする。

思想家や哲学者に限らず、何が現実で、何が概念かの区別がつかな
い日本人が多い。
仮想現実と現実の区別のできない人も多い。戦争に負けた心の傷を
かばうがあまり、現実を見つめられなくなってしまったのだろうか。

国際戦略だろうが、町内会や家族関係だろうが、何が現実で、何が
概念かを見分けることができなければ、それらとまともに取り組む
ことはできないのである。

得丸久文、2001.09.22


コラム目次に戻る
トップページに戻る