433−1.カール・マルクス、 マックス・ウエバー、 国際ロータリー



ken
 
エンゲルスが、マルクスの資本論を出版したのは1895年であっ
た。
彼らは資本主義社会の不幸な末路を予言し、その収拾手段として
社会主義ないしは共産主義を説いたけれども、これはいまのところ
失敗に終ったようだ。
遅れること10年、1905年にマックス・ウエバーが有名な「プロ
テスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を発表して、資本主義
の飽くなき利益追求によるマイナス結果を予言し、その防御法とし
てのキリスト教倫理を説いた。
 
彼は、「プロテスタンテイズムの世俗内的禁欲は、無頓着な所有の
享楽に全力をあげて反対し、消費、ことに奢侈的消費を圧殺し・・
(イエズス会派は)その行為を不断の自己審査と倫理的意義の熟慮
にもとにおくことを目的とする合理的生活態度(を作り上げ)・・
、今日でもイギリス人とイギリス系アメリカ人の紳士の最良の類型
に見られる、あの自己抑制と自己審査に対する尊重……」を挙げて
、資本主義社会に生きる資本家および賃金労働者両者共通の心構え
を力説したのである。
 
なぜなら、「中国の官吏や古代ローマの貴族や、近世では農場経営
地主の貪欲は言語に絶し、またナポリの馬車屋や船乗りや、わけて
も同様の仕事に従事しているアジアの人々の金銭慾は・・徹底的で
あり、厚顔でさえあり・・勝利を遂げた資本主義は、機械の基礎の
上に立って(禁欲の精神という)支柱を必要としなくなり、・・
世俗の外物はかって歴史にその比をみないほど強力となり、ついに
は逃れえない力を人間の上に揮う・・」に至る、と警鐘を発してい
る。
 
マックス・ウエバーの、この論文が世に出た直後の1906年に、
いま全世界に120万人の会員を擁する国際ロータリーの源流たる
シカゴロータリークラブが、「職業上の利益の増大と、社交クラブ
としての親睦」を目的として、ポール・ハリスなどの手によって発
足した。 
しかし当時、20世紀初頭のアメリカは、資本主義の長所と短所の
両極端が表れ、如何にして金儲けをするかが人生最大の命題であり
、たとい汚い手段であろうと金儲けをしたものが持て囃される時代
であった。一獲千金の悪徳商法が罷り通り、職業倫理は地に落ちて
いた。
そうした時代背景にあって、「互恵と親睦」だけを目的とするクラ
ブでは存在理由がないとする理論家のシェルドンやカーター弁理士
によって、誕生後まもないロータリークラブは「職業生活における
奉仕の重要性」を第一の目的に掲げる倫理的なロータリークラブに
あわただしく衣替えした。そしてそれが奏功して、今日、全世界に
120万人の会員を持つ巨大な国際ロータリーにまで成長したので
ある。
 
カール・マルクスの予言した資本主義の末路、マックス・ウエーバ
ーが心配した資本主義の爛熟期。そして20世紀初頭には早くもそ
うしたデメリットが顕在化し、それに歯止めをかけようとして生ま
れた国際ロータリー。この3者は、3様に資本主義の弱点をはやく
から見ぬいていた。
 
1970年代のなかごろ、水街道市の実業家増田一氏は、テストケ
ースとして資本主義を導入しようとした中国東北の地方政府に頼ま
れ、経営指導のため日中の間を往復していた。 
氏は当時、ボクに語った、「明治以来の日本にはプロテスタンテイ
ズムに代わるべき儒教道徳が存在し、資本主義も成功した。 いま
批孔批林の真っ只中にある中国には儒教道徳もなければ、プロテス
タンテイズムの倫理もない。そこへ資本主義を導入すればどういう
ことになるか、中国の政治家ともどもその予測がつかず、おっかな
びっくりで指導に行っている」。 
その後、かれの中国東北部における経営指導がどうなったか、ボク
は知らない。
 
いまの日本の混迷は、プロテスタンテイズムの倫理の無いところへ
、僅かな儒教倫理を頼りにして持ち込んだ資本主義が爛熟し、いま
やその弱点が露呈された、とボクは解している。
 
本来キリスト教国でない日本にプロテスタンテイズムの倫理を植え
付けるのは無理であったろう。ならば、国際ロータリーが掲げる
「職業奉仕」、つまり「職業倫理の向上」はどうなっているか。 
じつは、最近のロータリークラブはどことも会員減少に悩み、国際
ロータリーの規定審議会議案には「親睦だけに戻れ」とか「職業倫
理関する規定を削れ」とかの退嬰的提案が数多く寄せられているら
しい。正直なところ、80年前に掲げられたロータリーの理想も
いまのところ失敗に終ったかの感がある。 
まことに残念である。
 
そうした折も折り、わが国際戦略コラムでは若き思想家得丸氏が
論語を説き、儒に戻れという投稿を続けている。意気まことに盛ん
で、ボクのような大正生まれにとっては、亡霊が帰ってきたような
、それでいて拍手喝采したいような心境でもある。
 
ただ気になるのは、論語で説く孔子の教えが、総てみな現在にも当
てはまる立派なものであるかどうかだ。たとえば前に触れた「比孔
比林」などの中国政府のかってのスローガンは、なぜしゅったつし
、なぜその必要性があったのだろうか。
 
あるいは、ボクなどが大きく間違っていないと思う「教育勅語」が
いまだに廃されたままになっているのは、いったいどの部分が不適
切だからか。 
儒教道徳そのままを転記したような「教育勅語」には、天皇家尊敬
の部分も含めて、さしたる不都合な個所も無いかにみえる。 しかし
かたや、聞くところによれば明治31年には西園寺公望、竹腰与三
郎、本野一郎らによって改正原案が作成され、明治天皇もそれを
支持されていたとのこと。
 
そうしたことを考え合わせると、得丸氏の仰せの論語や吉田松陰に
は、すぐ従うわけにもゆかぬような気がする。
だからといってこのままでは、かってマックス・ウエバーに揶揄さ
れた「ナポリの馬車屋にも劣る東洋の」われわれは、この混迷した
日本という社会をどう処理してゆけるのだろうか。

Ken 

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