412−1.さようなら、ポプラ



●得丸(32) 題名:さようなら、ポプラ
天気予報通り、富山は夕べから雪だ。冬の日本海側の天候は厳しい。

アパートに隣接する公園には、樹高20m近い大きなポプラの木が2本
あったのだが、正月の大雪と大風に負けて、うち一本がまん中で
ポキンと折れてしまった。

僕は東京から9日の朝戻ってきたので、一昨日の朝、そのことに気
づいた。上半分がドカッと身投げでもしたかのように地面に転がっ
ていた。幸いにして公園の中だから、被害もなんにもなかったが。
9日の晩の風も強かったから、その晩に折れたのかもしれない。

昨日の朝公園を見ると、折れて地面に転がっていた上の部分が、短
いたきぎサイズに切り分けられていた。今朝雪の公園を見おろすと
、下半分もすでに切られてしまっており、切り株が地面から20cmほ
ど顔を出すだけになっていた。わずか数日の間の、変わりよう。

このポプラの木にファンがどれだけいたかは知らないが、大きな木
の少ない富山市内では目立っていて、僕などはよく東京からの飛行
機が富山空港に着陸する寸前に、2本のポプラの木を目印に自分の
アパートを目で追ったものだった。

冬枯れの公園の景色はさびしいものだが、裸の枝の間から立山連峰
の姿が見える。4月になるとだんだん小さな木から葉っぱを付けは
じめるのだが、このポプラはいつまでたっても葉をつけないのが少
し心配だった。
連休間近になってやっと少しずつ葉を茂らせはじめたときは、ほっ
としたものだった。

遠藤周作の小説「おばかさん」の主人公がポプラというあだなだっ
た。大きいがマッチの軸にしかならない使い道のない木だと説明さ
れていたことを思い出す。今の世の中、マッチを知らない子供も増
えているという。ポプラは風呂屋の焚き木としてでも使われるのだ
ろうか。

ちょっとさびしくなった。

さようなら、ありがとう。
(Leos Janacek "From the House of the Dead"を聞きながら)
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●桂(33) 題名:緑と街作りの概念
身近な緑は、日頃気付かないようでも人に与える恩恵が大きいのか
もしれません。
しかし日本の町は実に並木と公園が少ないですね。
地方へ行くとちがうのかというと、確かに空気はうまいし、水田や
山に恵まれていても、並木道や公園に関しては都市部より貧弱かも
しれない。
もっとも都市の並木はコンクリートにぬりこめられて窒息寸前です
が。どうも日本には街作りという概念が欠けている気がしますが、
なぜだろう?
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●得丸(34) 
エゴイズムのせいではないかな、都市計画がうまくいかないのは

渡辺京二「逝きし世の面影」を読むと、江戸の町はうつくしい田園
都市だったそうです。今の日本に都市計画がないとすれば、それは
戦後のエゴイズムの思想によって、日本人が町を美しくするよりも
自分の家や庭だけを確保することに汲々としてきたからではないか
と思います。

西欧近代市民革命以来、人間の自己主張はより激しくなり、自然と
も激しく対決してきたように思います。
エゴイズム批判が必要なのかもしれないと、思います。
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●桂(35) 得丸さんへ
エゴイズムはどうやって入りこんだんだろう

エゴイズムですか、、、。
戦後民主主義の日本より江戸時代封建主義の方が、都市計画理念が
あったとしたら、なんだか皮肉な話ですね。

300年以上の隔たりがあっても、個人が感じる「住みやすさ」や
「快適」の感覚がそれほど大きく変わったとは思えないです。
昔に詠まれた和歌や俳句には、私たちの心情に訴える余地がまだけ
っこう残っていますから。
それに、昔の日本人庶民一人一人がそれほど積極的に町作りに関わ
ったとも考えにくいですね。

すると、統治する側の感覚、意識、あるいは理念に江戸時代(それ
とも戦前?)にはなかったエゴイズムが入りこんだということでし
ょうか。
そもそも今の官僚や政治家の人達は、何をよりどころにして国造り
を考えているのかな?


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